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第三章 剣術の諸流派と武芸者


ここでは、剣術のさまざまな流派と、その著名な武芸者を紹介します。

どのような流派が、どのような特徴を持ち、そしてどのような武芸者が その歴史を形作ったのか、それをじっくりとお楽しみください。 流派を選ぶときの参考になるでしょうし、 オリジナルの流派を作る際にも、参考になるかと思います。

新陰流(しんかげりゅう)

開祖

上泉伊勢守信綱(こういずみいせのかみのぶつな)

成立

戦国末期

歴史・概要

上方の剣豪、愛州(あいす)移香斎の創設した 「あいす陰ノ流」を元にした流派です。
その流れを組む流派として、タイ捨流直心影流がありますが、 最も有名なのが、 柳生宗厳(石舟斎)に伝えられた柳生新陰流です。 柳生新陰流のうち、柳生宗矩の流れである江戸柳生は将軍家剣術指南役であり、 将軍家お留流(その家以外には教えてはならない流儀)とされていました。
新陰流(特に柳生流)を学んでいるのは、 江戸柳生であればある程度大身の旗本、 尾張柳生であれば尾張藩士が普通です。

特徴

新陰流の特徴としては、 構えをなくして、 責めと守りを一つにした「無形の位」を目指す点にあります。 また、 相手を威圧して斬ることを「殺人刀(せつにんとう)」 と呼ぶのに対し、相手を十分に動かして勝つのを「活人剣」と呼んで、 これを目標とします。 そのため、相手に技を出させてからそれを撃つ、後の先の剣に優れています。
また、上泉伊勢守から柳生石舟斎に託され、石舟斎が完成した「無刀取り」は、 剣をとらずして相手に打ち勝つという、剣術の究極目標ともいえるものです。 無刀取りの自己獲得が、新陰流の一つの頂点ともいえます。

著名人

上泉伊勢守信綱(こういずみ・いせのかみ・のぶつな)(1508--1577)

新陰流の開祖です。

武田信玄からの仕官の誘いを「兵法の完成のため」と断って、 その言葉通りに兵法の追求とその普及に一生を費やし、 剣術の芸道化を推し進めました。 剣術だけでなく槍術、柔術、さらには軍法までも得意とし、 宝蔵院胤榮(いんえいえい)と共に十文字槍を考案したり、 自ら袋撓(ふくろしない)を考案したり、 教授法をシステム化したりもしました。 まさに剣聖と呼ぶにふさわしい人です。

立ち会いにおいては、相手に「負けたような気がしない」と 思わせるようなやわらかな太刀筋でしたが、 必ず一歩勝り、決して敗れることはなかったといいます。

信綱には、 黒澤明「七人の侍」にも使われた次の逸話があります。 信綱がある村を通りかかったところ、盗人が子供を盾に民家に立てこもっていました。 彼は握り飯を作るように頼み、自分は通りかかった僧侶に頭を剃らせ、 袈裟を借りて、握り飯を持って盗人にいいました。 「出家である。子供に握り飯を持ってきた。お前も一つどうじゃ」 盗人が思わず手を差し出すところをすばやく入り、 子供を助け出したのです。 僧は彼の知略と胆力に感嘆し、袈裟をそのまま授けて去ったといいます。

柳生宗厳(石舟斎) (やぎゅう・むねとし(せきしゅうさい)) (1529--1606)

大和は柳生の郷士、柳生家の棟梁で、 剣術を磨いていましたが、上泉伊勢守信綱の弟子の疋田文五郎(ひきた・ぶんごろう)に破れ、 信綱の門下に入りました。

信綱に与えられた「無刀取り」の公案を完成させ、 徳川家康の前で披露したことで、 柳生家が将軍家剣術指南役となるきっかけを作りました。

柳生宗矩 (やぎゅう・むねのり) (1571--1646)

石舟斎の息子で、将軍家剣術指南です。 徳川家光をして、「天下統御の道は、宗矩に学びたり」と言わしめた 卓抜した政治を見通す力で、1万2千石の大名となりました。 無論、剣術指南役としての腕も優れていました。

柳生の里が伊賀、甲賀に近いことから、柳生は忍者集団であったとの説があり、 宗矩の出世を、その陰の功績によるものではないかとする小説は数多くあります。

柳生十兵衛 (やぎゅう・じゅうべえ)(1607--1650)

小説に映画に、あまりにも有名な隻眼の剣豪です。 柳生宗矩の長男ですが、 家光の機嫌を損ねて職を退き、12年後に復帰しました。

この12年間の間は、 彼の手による兵法書「月見集」によれば、 柳生の里にこもって各地から訪れる剣客たちの相手をしたり、 兵法の研究に勤しんだとのことですが、 同じく彼自身の手による「月之抄」では、諸国遍歴を思わせる記述もあります。 しかもこの中に「私ならず(私事ではなく)」なる一言があることから、 公儀のための諸国遍歴、すなわち隠密を匂わせているという見方もあります。

これが作家の想像力を刺激するらしく、 ちょっと無頼で隻眼の剣の達人が諸国を旅する、という 柳生十兵衛像が形作られたのでしょう。

本当に隻眼だったかは確証がありませんが、 実際、父親の宗矩と同程度か、それ以上の剣豪だったようです。 奇しくも流祖の上泉伊勢守と同じく、黒澤明「七人の侍」に 使われた次のようなエピソードが残っています。

ある時、浪人剣客から試合を挑まれた彼は、木剣を持って闘い、 十兵衛が相手を打つとほぼ同じに、相手も十兵衛を打ちました。 相手が「相打ちだな」というと、十兵衛は「私の勝ちだ」といいます。 浪人はいきり立ち、それならということで真剣で立ち会うことになりました。 結果は木剣のときとほとんど同じでしたが、倒れたのは浪人だけで、 十兵衛の方は衣服が斬られるにとどまりました。 これほどの目を持つ十兵衛ですから、さぞかし強かったことでしょう。

江戸柳生を興すにふさわしい強さを持つ十兵衛でしたが、 惜しいことに、宗矩の死からわずか4年、44歳で急死します。 酒豪だったといいますから、酒毒が体を蝕(むしば)んでいたのでしょうか。

柳生兵庫助(如雲斎) (やぎゅう・ひょうごのすけ(にょうんさい))(1578--??)

柳生新陰流には、柳生宗矩に連なる江戸柳生と、 宗矩の甥である柳生兵庫助に伝えられた尾張柳生があります。 本来は尾張柳生が宗家でしたが、 江戸柳生が将軍家指南役として表舞台に立っていました。 しかしながら、 次第に「大名の剣法」として衰退していくのに対し、 尾張柳生は依然として盛んでした。

兵庫助の最も大きな業績は、 「直立(つった)ったる身の位」と 「上段の構え」の創案です。 甲冑武者の構えは、重い鎧をつけているために、体勢を屈めて重心を低く取る 「沈なる身の位」でした。 兵庫助は、素肌剣法の利を生かし、背筋を伸ばし、 相手が打ち込んでくるまで自然に構える構えと、 刀を上段に振りかぶる構えを開発しました。 これは、それ以前の構えに比べて身の守りががら空きに見え、恐怖感がありますが、 打ち込みの延びが明らかに優れています。

柳生連也厳包 (やぎゅう・れんや・よしかね)(1625--1694)

柳生連也こそ、尾張柳生の「心の兵法」の完成者ともいえる傑人です。

家光の御前における試合(津本陽の短編小説「身の位」によれば 試合ではなく、組太刀稽古であったとのこと)で、 宗矩の三男又十郎宗冬の親指を砕いたことは有名です。

荒木又右衛門 (あらき・またえもん) (1598--1638)

日本三大仇討ちの一つ、鍵屋の辻の決闘で有名な荒木又右衛門は、 柳生新陰流の門人でした。

講談では、鍵屋の辻で36人斬ったことになっていますが、 実際は河合甚左衛門と桜井半兵衛の二人しか斬っていません。

二人とも強敵だったとはいえ、 河合甚左衛門は不意打ちでしたし、 桜井半兵衛には得意の槍を取らせず、 剣で戦って勝ちを得ています。 また、半兵衛を討ち取った直後に小者に棒で腰を殴られていることから、 それほど達人ではなかったともいわれています。

しかし、待ち構えている相手に対し、味方を指揮して見事仇討ちを成功させた 精神力はすばらしいといえるでしょう。

小笠原長治(源信斎) (おがさわら・ながはる(げんしんさい)) (1570--?)

武田家ゆかりの名家の末弟でありながら、幼き頃から臆病であった彼は、 兵法をもって自信と変えようと修行にはげみ、ついに新陰流の達者となりました。 小笠原家が旗下にあった北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、 師匠である三河の新陰流奥山伝心斎の道場に身をよせ、 その後も兵法を極めるため、琉球、さらには明(みん)までも渡りました。

日本に戻ってからは江戸に出て源信斎を名乗り、 奥山流剣術を教え、 一時は門下三千人と称したこともあったほど隆盛を極めたといいます。 源信斎は、「八寸の延べ矩(かね)」なるものを創始しました。 これは何だったか、武器か闘法かすらもよく分かっていませんが、 明で学んだ中国武術から得られたものです。 武器とすれば二節根(ヌンチャク)、闘法とすれば 中国戈術の激しい動き(ジャッキー・チェンの映画のような 感じを想像すればいいのかもしれません)ではないかと されています。 八寸の延べ矩を使った源信斎には、 上泉伊勢守が生き返ったとしてもかなわないのではないかともうわさされたほどです。

源信斎は自らの流儀を真新陰流と呼び、この流派が直心陰流となります。

タイ捨流(たいしゃりゅう)

開祖

丸目蔵人佐長恵(まるめくらんどのすけながよし)

成立

戦国末期

歴史・概要

タイ捨流は、上泉伊勢守信綱の直弟子である丸目蔵人佐が始めた流派です。

「タイ捨」とは、体を捨てる「体捨」、待ちを捨てる心「待捨」、 自性にいたる心「太捨」を合わせた言葉です。 今一つ「体斜」、 すなわち構えを斜めに取ることから来ているのではないかという説もあります。

タイ捨流を学んでいるのは、たいてい九州出身の剣術家でしょう。

特徴

前後左右に飛び違い、人を斬りたて圧倒する、 すこぶる荒い剣法です。 その荒々しさが南国に好まれたのか、九州一円に広まり、 示現流の開祖、東郷重位も学んでいます。

すべての構えは「斜」にとり、斬り上げ、 斬り下げの型がことごとく斜めであることが特徴です。

著名人

丸目蔵人佐長恵 (まるめ・くらんどのすけ・ながよし)(1540--1629)

タイ捨流の始祖です。

熊本の八代に生まれた彼は、 若くから兵法修行に打ち込み、 もはや九州に手に負うものはなしと19歳の年に廻国修行に出ました。 そして上泉伊勢守信綱に戦いを挑み、赤子の如くあしらわれて、即座に入門しました。 将軍足利義輝に対する信綱の兵法上覧の際には打太刀を務めたほどの腕で、 その素朴で激烈な性格を信綱に愛されました。

清水寺ほかに「天下一」の立て札を立てて真剣勝負を挑みましたが、 だれ一人としてかなうものはなかったという逸話が残っています。 剣、槍、長刀、居合など多くを極め、上泉伊勢守からは裏太刀(忍術のこと)まで 伝授されていました。 裏太刀を伝授されたのは、蔵人佐と柳生宗矩の二人だけだそうです。

その後、九州に戻ってタイ捨流を起こし、球磨・相良家の剣術師範となりました。 晩年は隠棲し、原野の開墾に当たったといいます。

直心影流(じきしんかげりゅう)

開祖

山田平左衛門光徳

成立

江戸初期〜中期

歴史・概要

真新陰流の小笠原長治の門下から出た神谷伝心斎直光が、 「直心をもって、非心を打つ」というところから流派の名を「直心流」と改めました。 ついで高橋弾正左衛門重治が「直心正統流」と改め、 さらにその弟子の山田平左衛門光徳が、 「直心正統流」では陰流の古称が失われるのを遺憾とし、「直心陰流」としました。

直心影流は、江戸が本拠地ですから、江戸詰めの各藩の藩士を通して全国に伝わりました。

特徴

基本は新陰流と変わりませんが、 流儀の名前となった「直心をもって非心を打つ」が大きな特徴となっています。 おのれの非を切断すること、すなわち「非切」が流儀の鉄則で、 これを高橋重治が「非打」の太刀として組太刀の型に取り入れました。

また、山田光徳の弟子である長沼国郷が、 面、篭手の防具をつけ、竹刀を用いる稽古試合を取り入れました。 稽古試合の採用によって、近代剣術への変革が起こったといえます。

著名人

男谷精一郎信友 (おたに・せいいちろう・ながとも) (1798--1864)

幕末の剣客であり、明治以降の剣道の成立に多大なる影響を及ぼしました。

人柄は温厚で、 諸葛孔明や楠正茂らを称えて、弟子たちに読書を薦めて忠孝を説きました。 一度たりとも声をあげて人を叱ることがありませんでしたが、 自らの言うことを忠実に実行していたため、 自然に弟子たちは感化されたといいます。

それまで他流試合を固く禁じていた直心影流で、彼は他流試合を重んじました。 剣術は忠孝のためであり、勝ち負けは問題ではないとして他流試合の利を説き、 その言葉通りに、 道場に誰が来ても気軽に彼自身が立ち会い、 また、自らほかの道場に足を運んで試合をしました。

試合においても、相手の腕に合わせた穏やかな太刀使いでしたが、 ほとんど常に勝利を納めました。 千葉周作とも立ち会って勝ちましたが、 「あれだけ遣うには、さぞかしご苦労されたことでしょう」と相手を称え、 水戸家に密かに推挙したと言われています。

その他に、老中阿部正弘に講武所の設立を建白し、 設立と同時に剣術師範役となりました。 また、竹刀の長さを現在と同じ3尺8寸と定めたのも信友です。 時勢に明るく明晰な頭脳の持ち主であったといえましょう。

島田虎之介見山 (しまだ・とらのすけ・けんざん) (1814--1852)

男谷精一郎信友の弟子で、勝海舟の師です。

九州から江戸に出てきて男谷道場を訪ねた見山ですが、 男谷はいつものように穏健な立ち会いで、 見山は、敗れはしたもののそれほどの剣客ではないと見ました。 しかし、次に訪ねた井上伝兵衛にその話をすると、 「それはあなたが未熟で、先生の腕が分からなかったのですよ。 私が紹介しますから、もう一度行ってごらんなさい」と言われ、 書状を渡されました。 それを持って再び立ち会うと、 今度は、男谷の余りの眼光の鋭さに打ち込むことさえ出来ず、 ついに羽目板に押し付けられて平伏してしまいました。 そこで早速に入門を願い、男谷門下に入りました。

中里介山「大菩薩峠」に、土方歳三を 「剣は心なり。心正しからざれば剣も正しからず。剣を学ばん者は心を学べ」 と諌める名場面があります。 これはもちろん虚構ですが、 言葉は島田見山自身のものです。 見山の目指した剣の道、「君子の剣」はここにあるといえましょう。

わずか39歳で早世し、男谷精一郎はその死をいたく悼んだそうです。

榊原健吉 (さかきばら・けんきち) (1830--1894)

男谷精一郎の弟子であり、直心影流14代宗家となります。

腕力が非常に強く、上腕が普通の人間の太股ほどあったそうです。 そのため、竹刀で思い切り面を打つと面金が歪み、 打たれたものは脳しんとうで倒れるほどでした。 そのため榊原道場では、頭を柱に気が遠くなるまで叩きつけ、 強く打たれても気絶しないように「頭を作」ってから稽古をしたといいます。

男谷に忠孝の道を薫陶され、 また14代将軍徳川家茂の近くに仕えて深い信頼を得たことから、 生涯徳川幕府の旧臣として新政府につくことなく、また髷を切りませんでした。 明治維新のあとも、彼の道場には家茂の肖像画が飾られ、 初めて訪ねたものは、家茂公に礼拝しなければ口をきこうともしなかったそうです。

維新後の剣術の衰亡を憂えた彼は、 「日本人精神を見せるため」に 剣術の試合を見せて金を取る「撃剣興行」を始めました。 欧化政策を進める政府は撃剣興行を禁止したましたが、健吉は 「興行は、いたずらに剣の術を見せているのではない。精神を見せているのである」と 頑張って、一歩も引きませんでした。 しかし健吉は金もうけに嫌気がさし、 2回だけで止めてしまいました。

明治20年、天皇の御前による兜割り(兜に刀で切り込む演舞)に、 ただひとり成功を収めて剣名をあげたことも有名です。

示現流(じげんりゅう)

開祖

東郷肥後守重位

成立

江戸初期

歴史・概要

薩摩藩島津家のお留流として名高い、非常に実践性の高い剣術流派です。 もとは塚原卜伝の新当流と同じ流れを汲む天真正自顕流で、 これを東郷重位が上洛した際に学び、国に帰って広めたものです。

「示現」とは観音経の「示現神通力」から取ったもので、 島津家久の命によって「自顕」から改めたものです。

幕末、薩摩の勤王志士たちは、示現流、あるいは後述の薬丸自顕流の使い手が多く、 そのスピードとパワーに優れた剣は、近藤勇をして、新選組の隊士に対し、 「薩摩っぽうの初太刀を外せ」と厳命させたと言われています。 上野彰義隊の戦いで、 幕軍の名だたる剣客が、薩摩の一兵卒の剣を受け、 そのまま自分の刀の鍔を額にめり込ませて死んでいたとされることからも、 その恐るべき太刀筋が分かろうというものでしょう。

示現流を学んでいるのは、薩摩藩の上級から中級の藩士です。

特徴

示現流は「トンボ」と呼ばれる構えが基本となります。 これは、「子供が打つぞと棒を振り上げた構えに左手を添えただけのもの」です。 右手拳を耳のあたりまで上げ、左手を添えて、 左肱(ひじ)は胸の当たりにつけ、 刃を体の後ろに向けて構えます。

打ち込みのときは、 左肱は切り捨てたように動かさず、体を捻りながら打ち込みます。 これを「左肱(さこうこう)切断」と呼びます。 これによって剣の速さが雲耀(うんよう)に 達し、立木打ちによって赤樫の木刀が折れるほどの強力な打撃が生まれます。 雲耀とは、「堅い板の上に薄紙1枚をしき、それに砥ぎ済ました錐を当て、 紙の表から裏へ突き抜く時間」です。 他の流儀は左肱切断を知らないため、雲耀の太刀を得ることはないと 示現流では説きます。

この激しい打ち込みは、 朝に三千回、夕に八千回の立木打ちを千日の間続けることによって得られます。 立木打ちは、「チェエーイ」という長い尾を引く掛け声の間に、 強力な打撃を左右から加えつづけるもので、 1回の掛け声の間に30回打つのが最上とされます。

また、示現流では打ち出すとき、三足で3間(約5.5メートル)の距離を飛行するのが 極意とされています。一歩踏み出したまま足を滑らせるのです。

示現流の組太刀には攻めの太刀はあっても受け太刀はありません。 攻めて攻めて攻め抜くのが示現流の闘法であり、 それを可能にするのが雲耀の剣なのです。

著名人

東郷肥前守重位 (とうごう・ひぜんのかみ・しげたか)(1561--1643)

東郷重位は示現流の流祖です。

丸目蔵人佐の高弟、藤井六弥太からタイ捨流を学びましたが、 上洛したおり、京都天寧寺の僧・善吉が剣の使い手であることを知り、 彼に天真正自顕流を学びました。 半年の間、師の善吉について修行をつんだ後、 国許に帰ってからは、朝に三千回、夕に七千回の立木打ちを千日の間行い、 ついに雲耀の太刀を得ました。

彼の示現流の腕が知られるようになったのは、 家中にその名を知られた剛強の士を、上意討ちによって討ちとめてからです。 重位が上方の剣術を得て強くなったとの噂は広まり、 彼の実力を見ようと、家中の乱暴者(ぼっけもん)たちが訪れましたが、 重位はそれをことごとく退けました。 この後、上意討ちは十数回におよびましたが、 一度たりとも仕損じることはありませんでした。

やがて島津家久の命によって、 剣術指南役であるタイ捨流の東新九郎と立ち会ってこれを破り、 さらに八寸あるカヤの碁盤(粘りがあり、表面が平らなため 非常に斬りにくい)を断ち割り、家久の信頼を得るようになりました。 かくして示現流は、島津家お留流となるのです。

62歳のとき、柳生新陰流の高弟である福町七郎左衛門、寺田藤助の二人が 薩摩藩江戸屋敷を訪れ、重位との立ち会いを望みましたが、 重位は難無く退けました。 二人は早速入門誓詞を入れましたが、 福町はこのときに肋(あばら)を折られて翌日に死にました。 重位の強さを表すエピソードの一つです。

薬丸自顕流(やくまじげんりゅう)

開祖

薬丸刑部左衛門兼陳(やくまぎょうぶざえもんかねのぶ)

成立

江戸初期

歴史・概要

示現流の分派であり、示現流を更に単純化し、 殺法として突き詰めたようなものです。 別名を野太刀自顕流ともいいます。

基本的な考え方は、習得を容易にし、なおかつ威力を高めるもので、 示現流に比べて十分な威力を持ちうるに時間がかからないため、 諸事に多忙である下級藩士の間に広く普及しました。 幕末の薩摩の勤王志士の中には、 道場に通うことなく、薬丸自顕流を見よう見まねで独学で身に付けたものが 結構いたそうです。 生麦事件の際、貿易商リチャードソンに斬りつけた二人も、 薬丸自顕流の使い手でした。

薬丸自顕流を身につけているのは、薩摩藩の下級藩士や郷士など、 決して暮らし向きが豊かでない人たちが多いです。

特徴

示現流では、剣をトンボにかまえて、捻りながら立木を打ちます。 捻り打ちは修練すれば威力はすさまじいのですが、 そこにたどり着くまでに大変な修行を必要とします。

そこで薬丸自顕流では、刃を前に向けて構えて、 横木に向けてまっすぐ振りおろすように改良しました。 このとき、膝に継ぎを当て、膝が地面に擦るまで振りおろします。 捻りがないので、十分な修練のもとでは示現流に比べ威力は劣りますが、 その代わり習得は早いのです。

そのほか、薬丸自顕流には「抜き」と称する抜刀術があります。 これは野太刀(介者剣術)の流儀から来ていて、 他流のように洗練されていませんが、ものすごい威力を持っています。 体を低く沈め、刃を下に向け(太刀と同じにする)、 柄の上に肱を乗せるようにして構え、 刀を引き抜きながら下から上に向かって斬り上げます。

薬丸自顕流では、人を袈裟に斬れたら免許皆伝とされました。

著名人

中村半次郎(桐野利秋) (なかむら・はんじろう(きりの・としあき)) (1838--1877)

幕末、「人斬り」と呼ばれた三人は、 河上彦斎、岡田以蔵と、この中村半次郎です。 半次郎はほかの二人と違い、誰を斬ったという話は残っていませんが、 島津久光の命によって公武合体派の青蓮院宮(中川宮)邸の警護にあたって、 宮をねらう尊攘志士たちを次々に返り討ちして、剣名を上げました。

彼は貧乏な郷士の家に生まれました。 生活にも事欠く中で、 彼は一時期道場に通っただけの自顕流の剣を、独学によって高め、 中村自顕流とでも呼べるものにしていきました。 抜刀術が達者で、 軒先から雨の滴が落ちるまでに、三度抜いて三度鞘に納めることが出来たそうです。

久光が兵を率いて京に上るとの噂を聞いたとき、矢も楯もたまらずに、 薩摩芋3本を手に西郷隆盛を訪れ、懸命に自分を売り込みました。 このとき、芋を土産にしたと笑った弟の吉次郎に、 隆盛は「どうしてこの篤(あつ)か志(こころざし)に報いようかと考えている」と言い、 これを伝え聞いた半次郎は涙を流したといいます。

最後まで西郷と思想を共にし、西南戦争で西郷に殉じて40歳でこの世を去りました。

一刀流(いっとうりゅう)

開祖

伊東一刀斎景久

成立

戦国末期

歴史・概要

伊東一刀斎が起こした流派です。 また、一刀斎の弟子である神子上(みこがみ)典膳は、 小野次郎右衛門と名を変え、将軍家指南役となりました。

一刀流にはさまざまな分派がありますが、 特に中西派では、 直心影流・長沼国郷によって整理された竹刀、面小手を用いた試合稽古を さらに発展させ、胴を考案して、 韜袍(とうほう)剣術を完成させました。 中西派では、一刀流にそれまであった刃引きの真剣による型稽古を止め、 韜袍剣術に重きを置くようになったのです。 これをもって中西道場は非常な隆盛を見せました。

一刀流は全国に広く広まっています。

特徴

一刀流の極意は「一刀即万刀、万刀即一刀」であり、 「一に始まり、一に帰す」とも言われます。 これを技の面から表すと、一刀流は切落に始まり、切落に終わると言えます。

切落とは、相手の剣を受けもかわしもせず、 相手の動きに合わせて、そのまま切り落として勝ちを得る剣のことです。 こちらの気力に相手が圧倒され、 誘われて正面から打って出たところをこちらから切って落とすのが信条です。

切落突という型はこれをさらに発展させ、相手が引いて逃げようとするとき、 咽喉(のど)、あるいは鳩尾(みぞおち)を突いて進み出ます。 すると、切り落とした瞬間に切り、突くことが同時に起こります。

このような技を行うため、自らの心にある我意我欲我執恐怖を「切り落と」します。 すなわち切落とは、単なる技ではなく、 心も一体となった一刀流の極意なのです。

著名人

伊東一刀斎景久 (いとう・いっとうさい・かげひさ)(??--??)

一刀流の開祖でありながら、 生没年、出生地、さらに身分までもが不祥の謎に包まれた剣豪です。

鐘捲流(中条流)の鐘捲(かねまき)自斎に師事しました。 自斎門において、次のような逸話が伝えられています。 当時は弥五郎といった一刀斎が、入門三年ほどで、 「兵法の妙技を悟った」と自斎に語り、 さらに「兵法の妙は自分の身にあるので、師から伝えられるものでもなければ、 長くやっているからというものでもない」といいました。 自斎は生意気だと思い、弥五郎と立ち会ったのですが、 なんと、二度ならず三度も自斎が敗れてしまいました。 弥五郎の「人間、眠っていても頭がかゆいのに足を掻いたりはしないものだ」という 言葉を聞き、自斎は早速に秘伝を伝えたといいます。

その後伊豆三島に流れつき、三島明神の神官から「甕(かめ)割り」と言う刀を贈られました。

伊豆から小田原に出た弥五郎は、後に古藤田流を開く 古藤田勘解由左衛門俊直 (ことうだ・かげゆざえもん・としなお)に出会い、 彼を弟子にしました。俊直の紹介で、北条家の家臣に剣を教え、 しばらく小田原に逗留しました。 このとき、明の刀術家と対決し、 木切れ一本で唐剣をあしらい、武名を高めました。

また、女にだまされてしたたかに酔って、 刀を奪われた上で賊に襲われたこともありました。 この危機の際に悟ったのが「払捨刀(ふっしゃとう)」です。 このように、むやみに人間臭い逸話が残っているのが、 一刀斎の面白いところです。

その後、弥五郎は一刀斎と名乗り、諸国を放浪し、 各地で弟子を取って教えました。 放浪の際に弟子入りし、ついて歩いたのが、 小野善鬼と神子上典膳(みこがみ・てんぜん)です。 彼ら二人が、一刀流の嫡伝を表す「甕割り」を賭け、 下総の小金原で決闘しました。 これが世に言う「小金原の決闘」で、 結局典膳が勝ち、一刀斎は典膳に甕割りを与えた後、忽然と姿を消しました。

小野次郎右衛門忠明(1565--1628)

小金原の決闘に勝った神子上典膳は、 江戸に出て駿河台に道場を開きました。 文禄2年(1593)年ごろに徳川家の剣術指南役として仕官し、 名を小野次郎右衛門忠明としました。

政治家として成功した柳生但馬守宗矩とは対称的に、 最後まで一兵法家でした。 宗矩に「御子息にも真剣の立ち会いをさせるべきである。 罪人の中で腕の立つものに真剣を持たせ、立ち会わせたらよい修行になろう」 と勧めたり、 秀忠に対して「兵法は腰の刀を抜いての上でなくば畳の上の水練である」などと述べ、 刃引きの真剣による稽古を課したりしました。 そのため、秀忠は忠明を疎んじて、宗矩が1万2千石の大名に登りつめたのに対し、 忠明は最後まで旗本でした。

しかしながら剣の腕に関しては、忠明は柳生をはるかに上回っていたと伝えられます。 あるとき、宗矩の屋敷に行き、宗矩の長男である十兵衛と立ち会いました。 するとたちまち十兵衛は「我が剣を打ち出す隙がない」と木刀を投げ棄てました。 さらに柳生の3人の高弟が背後から打ちかかりましたが、 忠明はすべてを軽く撃退しました。 3人は「名人か、さもなくば魔法使いとしか思えない」と語ったそうです。

中西子武(なかにし・つぐたけ)(?--?)

中西派一刀流初代、 中西忠太子定(たねさだ)の子にして二代目です。

子定は下谷練塀小路東側に中西道場を開き、非常に流行りましたが、 子武は一刀流に対して大きな改革を行いました。 それが、刃引き(刃をつぶした刀)による稽古を廃し、 韜袍(とうほう)稽古、つまり面小手をつけて 竹刀を用いた試合稽古の導入です。

一刀流に限らず、それまでの剣術の稽古は、刃引きや木刀による形稽古でした。 相手の刀が自分に触れなければそれで良く、心法を極めるのが本道で、 勝負の勝ち負けは二の次であるとされました。 しかしながら、時代が下るに連れてどんどん型・組太刀が増えて、 型の持つ理合(理屈)が失われ、 美しく舞えばそれでよいとされるようになってきました。 子武はそれを憂い、韜袍稽古を取り入れたのです。 このため、中西道場は隆盛を見せ、入門者が急増しました。

しかしながら子武は、韜袍稽古こそが最上と考えたわけではありません。 韜袍稽古は危険がなく、思い切り打ち込めるので、 つい単なる打ち合いになってしまいます。 一方、刃引き、木刀による稽古は、怪我を恐れて思い切り打ち込むことができず、 精神論などに流れがちです。 そこで子武は、木刀による形稽古と韜袍稽古を両方行い、 門弟は、いずれでも好きな方を学べるようにしました。

寺西五右衛門宗有 (てらにし・ごえもん・むねあり) (1745--1825)

幕末にかけて、多くの有名剣客を産んだ中西派一刀流の門人で、 後に天真伝一刀流を興します。 白井亨の兄弟子であり、後に師となります。

若くして中西道場に入門し、初代子定に学びましたが、 二代目の子武の韜袍稽古が一刀流の心理に反すると悟って中西道場を離れ、 平常無敵流の池田成美について12年修行しました。 中西道場が代が変わると戻り、 四代子(つぐ)(まさ)に一刀流を教えました。

寺西は、中西道場の中でも木刀による組太刀稽古専門であり、 決して竹刀は握りませんでした。 あるとき、韜袍派の某が試合を望んだので、 寺西は素面素小手、木刀で、相手は竹刀で立ち会うことになりました。 しかし、面を打とうとすると「擦りあげて胴を打つぞ」と、 小手を狙うと「切り落として突くぞ」と寺西が先々を読むので、 某はついに打ち込めなかったそうです。

白井亨 (しらい・とおる) (1783--1843)

中西道場にて学び、その後に寺西宗有に師事しました。 「日本剣道史」を書いた直心影流の山田次郎吉(榊原健吉の弟子)が、 「実に二百年来の名人なり」と称した、幕末最強の剣客の一人です。

亨は幼いうちに、機迅流の依田新八郎 秀(ひで)(なお)の道場に入門し、 15歳で依田道場を出て、下谷の中西道場に入門しました。

亨は、熱が出ようとも悪寒がしようとも休むことなく道場に出、 朝から晩まで、人の倍は修行しました。 そのうちに彼は、小笠原源信斎の「八寸の延べ矩(かね)」を会得し、 師である中西子啓が死んだのを機に廻国修行に出ました。

そして、備前藩の剣術指南役になりましたが、 あるとき「幼い頃から剣術の道に勤しんできたが、 40を過ぎれば体力・気力も衰え、修行も無駄になってしまう。 兵法とは、これほど頼りないものであろうか」という疑問を持ちます。 江戸から母の危篤の知らせがあったのを機に、 暇(いとま)を取って再び江戸に戻ります。

江戸に戻って、寺西の元に行き、廻国修行の成果をためそうと立ち会いました。 ところが、寺西の位に圧倒され、汗が流れるばかりで、 体を動かすことすらできません。 ときに亨は25歳、寺西は63歳。この寺西の剣こそ、 亨の疑念を解消させる、身体の頑強さによらない剣だったのです。 亨はすぐさま寺西の門下に入りました。

亨は寺西門で心身の修行を積み、ついに天真伝一刀流の印可 (いんか)を与えられます。 さらに念仏行者「徳本行者」について、身・心・意の一致を会得しました。

高柳又四郎 (たかやなぎ・またしろう) (1807--?)

寺西宗有、白井亨と共に、中西道場三羽烏と呼ばれた一人です。 彼の「音無しの剣」は、中里介山「大菩薩峠」における机龍之介の 「音無しの構え」のモデルとなったものです。

彼は「後の先」の達者であり、 相手の竹刀と自らの竹刀を触れさせることなく 相手を打つことが出来たといいます。 試合において竹刀が鳴らないので、「音無しの剣」と呼ばれました。

このように強かったのですが、狷介(けんかい)で、どのような初心者に対しても わざと打たせるようなことはせず、 自分のためにならないことは決してしませんでした。 そのため、後進が育たず、孤立していたといわれています

長谷川平蔵宣以 (はせがわ・へいぞう・のぶため)(1742--1795)

池波正太郎「鬼平犯科帳」の主人公、鬼平こと長谷川平蔵は、 高杉銀平道場なる一刀流の道場で学んだとありますが、 これは池波正太郎の創作のようです。 しかし、ファンとしては真実だと考えたいですよね。

高杉道場でどのような稽古をしたかは断片的にしか書かれていませんが、 「土蜘蛛の金五郎」(文庫11巻収録)で、 剣友の岸井左馬之介と真剣で組太刀を使ったとあるので、 韜袍剣術と共に、刃引きや木刀による形稽古を重んじる、 昔ながらの一刀流道場だったのでしょう。

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)

開祖

千葉周作成政

成立

幕末

歴史・概要

北辰一刀流は、俗に「お玉ヶ池の道場」と言われた千葉道場「玄武館」の流派です。 玄武館は「力は斎藤、技は千葉、位は桃井」として、江戸の三代道場と称され、 大いに流行りました。

流祖は千葉周作であり、 その単純かつ理にかなった指導法が世に受け入れられ、 幕末に起こった諸流派の中でもその名を高く知られています。

坂本龍馬や、「天保水滸伝」の平手造酒(ひらて・みき) (といって分かる人が何人いるのでしょうか。 私もちゃんとした話は分かりません。ははは) の流儀でもあります。

北辰一刀流を学ぶものは、各藩の江戸詰めの藩士から 江戸の剣客など江戸に居を構える人間です。 特に、千葉周作が水戸藩の指南役であった関係から、 水戸藩士が多いです。

特徴

北辰一刀流の優れた点は、簡明を旨としたことです。 流祖である周作は、すべての門人が名人となり、大成する必要はないと考えました。 それよりもむしろ、一人でも多くの門人を早く上達させ、 ある程度の腕前まで引き上げることこそ重要であると考えたのです。

そのために、目録などの簡略化、分かりやすい理合の説明、 韜袍稽古に重きをおいたこと、などが特徴的です。

周作の発想の源は、「人を斬るためではない剣術」ということでした。 ようは剣術のスポーツ化です。 確かに型稽古を重ねて理合を自得したものと比べれば、 刃筋の立てかた、手の内の締まり、 嵌め手や頚動脈の刎ね方などの実戦面は劣りますが、 スポーツ化を考えれば、そのようなことよりも、 理屈をわかりやすく説き、たくさんの試合稽古を重ねる方が有利なのです。

著名人

千葉周作成政 (ちば・しゅうさく・なりまさ)(1794--1855)

幕末における剣術の改革者として、 北辰一刀流の流祖たる千葉周作の果たした役割は非常に大きいと言えましょう。

周作は奥州にて医者を営む千葉吉之丞の子として生まれました。 吉之丞は元有馬藩の剣術指南で「北辰夢想流」なる流派を称していましたが、 御前試合に敗れて浪人し、再起の夢を子供に託しました。

周作が16歳のときに、吉之丞は一家で江戸に移り、 周作は中西派一刀流の浅利又七郎義信の元に入門しました。 彼はめきめきと腕をあげ、 浅利の紹介によって中西道場に食客として入門し、ここでも修行を積みました。 「音無しの剣」の高柳又四郎と立ち会い、 踏み込んだ拍子に道場の床板を踏み割ったという逸話が紹介されます。

その後、浅利の姪と結婚し、浅利道場の後を次いだのですが、 彼は一刀流の一道場の主として終わることを潔しとせず、 ついに浅利と縁を切って家を出ました。

周作は、それまでの一刀流の教えを明快にし、 整理して「北辰一刀流」を立てました。 整理の主な点は、免許・目録の簡素化と、 神秘主義を廃した科学的な技の説明にあります。

これが大評判となり、お玉が池にあった彼の道場「玄武館」は、 三千人以上の弟子がひしめく人気道場となりました。

坂本龍馬 (1835--1863)

維新の傑人であり、今なお高い人気を誇る坂本龍馬は、 千葉周作の弟である定吉が桶町に開いた道場で、免許を取った腕前です。 幼い頃から泣き虫で体の弱かった彼が、剣術を通して自らに自信をもち、 明治維新の中心人物となったことはあまりにも有名でしょう。

龍馬は剣の道よりも自由な生き方をめざしたのでしょう、 友人にピストルを見せ、「これからは剣よりもこれだよ」といった という有名なエピソードが残されています。その後、同じ友人に「ピストルよりも 学問だ」といって本を懐中から取り出して見せたということが、 武力倒幕の回避のために大政奉還を思い付いた龍馬らしいですね。

暗殺のときも、いくら議論に夢中になっていたとはいえ、 刺客の気配にまったく気が付かなかったというのは、 剣客としてみれば油断でしょう。

しかしながら、龍馬が剣豪でなかったことは、 彼の価値をまったく損なうわけではありません。 それどころか、剣で得た自信を日本の、そして世界のために役立てようとした 彼のスケールの大きさは、まさに剣にこだわらないところから生まれたと いえるのではないでしょうか。

二天一流(にてんいちりゅう)

開祖

宮本武蔵玄信

成立

戦国末期

歴史・概要

「あの」宮本武蔵の流派です。

そのストイックなまでに実戦性を強調した姿勢からか、 武蔵以外には高名な剣客を生むことはなく、 江戸の剣術界に大きな位置を占めることはありませんでした。 しかし武蔵一人の剣名で、その流派の偉大さを表すに十分でしょう。

二天一流は、やはり肥後・熊本藩のなかで 継承されていきました。

特徴

二天一流といえば、別名を「二刀一流」というとおり、 二刀流であるのが最大の特徴です。

宮本武蔵のあまりにも有名な著作「五輪書」で、 両刀をたばさんでいるにもかかわらず、 一刀(脇差)を差したまま倒れるのは武士として不嗜み(ふたし なみ)である、という 記述があります。 また、鎖鎌の宍戸某(梅軒というのは吉川英治「宮本武蔵」の創作)と 対決したとき、 小刀を抜いて投げつけ、胸を貫いて、ひるむところを倒しました。 これらが、二刀に着目した理由ではないかといわれています。

「五分の見切り」も、二天一流を特徴付けるものです。 五分、すなわち1.5センチで相手の斬撃が当たるか当たらないかを見切り、 的確な反撃を繰り出すのです。 無論、非常な胆力と視力を必要としますが、 会得すれば非常に優位に立てるのです。

ほかに二天一流の特徴といえば、 「構えあって構えなし」の考えでしょう。 武蔵は、他流派のような数多い構えを不要としました。 構えは守りの姿勢であり排すべきだとの考えです。

また、二天一流は他流に比べて技の数が少ないです。 実戦においては、せいぜい袈裟がけ、唐竹割り程度しか使えず、 複雑な技は出すことができないことを考えれば、実に合理的です。 徹底した実戦主義の一端がうかがえましょう。

著名人

宮本武蔵玄信 みやもと・むさし・げんしん? (1584--1645)

我が国の剣豪史上、最も有名でしょう。

剣を取ってはもちろんのこと、 名著「五輪書」に見られるように知性に優れ、 書や水墨画にも親しんで高い評価を得ています。

京流(吉岡流)の吉岡憲法一門との対決と、 小倉・細川家の剣術指南役、 佐々木巌流(小次郎)を船島(巌流島)で破った決闘が有名です。 これらを含め、 武蔵は60回以上の勝負を行い、 負けを知らなかったといいますからすごさが分かります。

吉岡一門との戦い、そして佐々木巌流との戦いで、 武蔵は「むかつかす」という戦法を用いました。 相手をいらつかせ、挑発し、怒らせて平静さを失わせ、 優位に立つのです。 最も有名な巌流島の決闘では、約束の時間に一刻(二時間)も遅刻した上、 刀の鞘を投げ捨てた佐々木巌流に、「小次郎、負けたり。 勝つ気ならなぜ鞘を捨てるか」と挑発しました。

こうした武蔵の戦いぶりは、正々堂々としていない、 という点で批判を受けますが、 この頃の兵法家は負けすなわち死であり、 必勝を期するのは兵法家として当然だったのです。

巌流島の決闘の後、武蔵は「大いなる兵法」すなわち軍学を志しました。 実際、武蔵はこれ以降、剣術の試合は一切行っていません。 彼は軍学を修めた武将として召し抱えられることを望み、 それにふさわしい待遇として、自らに千石という値を付けました。 しかしながら、世間は武功のない彼に単に兵法家としての評価しか与えませんでした。

そこに一人の理解者が現れます。肥後・熊本城主、細川忠利です。 寛永17年(1640年)、 忠利は武蔵を実米三百石の客分として召し抱え、 千石なみの席次を与えました。 武蔵のプライドと古くからの家臣の心情を共に満足させる処置であり、 いかに忠利が武蔵に惚れ込んだかが分かります。 武蔵はこれに応え、翌18年に 二天一流の心得を「兵法三十五箇条」としてまとめ、 忠利に献上しました。

しかし不運は続きます。 「三十五箇条」献上のわずか一ヶ月後、忠利は急死してしまうのです。 生涯唯一ともいえる理解者を失った武蔵の悲しみは、 さぞ深いものがあったでしょう。 彼は屋敷を出て世を捨てた形になり、 熊本郊外の金峰山の洞窟にこもり、 「兵法三十五箇条」をさらに肉付けした「五輪書」を執筆しました。 これぞ日本の武術史に残る名著であり、今でも読みつがれています。

松永誠一郎 (まつなが・せいいちろう) (1632--?)

隆慶一郎「吉原御免状」「かくれさと苦界行」の主人公です。 出生の秘密を持ち、幼くして宮本武蔵の手に育てられた誠一郎は、 武蔵の死後は肥後の山中で一人、剣を磨き、 「習得には武蔵をもって当てねばならない」と表現される二天一流の 正確な、場合によっては武蔵以上の体現者となりました。

江戸柳生の頭首、柳生内膳正宗冬(宗矩の三男で、十兵衛の弟)をして、 「百年に一度、現れるか現れないかの天才ではないか!」と驚愕させた剣の腕を持ち、 無類の優しさと「人を斬ってもなお爽やか」さを兼ね備えた彼は、 吉原と裏柳生の闘争の真っ只中に投げ込まれ、苦悩し、 血を吐くような幾多の悲しみを乗り越え、成長していくのです。

詳しくは近刊予定の「隆慶一郎サプリメント」をご覧ください。

中条流(ちゅうじょうりゅう)

開祖

中条兵庫頭(ひょうごのかみ)長秀

成立

室町時代

歴史・概要

神道流、陰流と並んで多くの刀術の祖流となった流派です。 伊東一刀斎が中条流の鐘(かね)(まき)自斎に師事したことが あるため、一刀流はこの流派の系列とされています。

中条家には代々、中条家刀術とでもいえるようなものが伝承されてきましたが、 それを体系化したのが流祖の兵庫頭長秀です。

中条流の名を高めたのは、何といっても盲目にして小太刀の達人 富(と)(だ)勢源、勢源の義理の甥の富田越後守重政、 勢源の弟子の鐘巻自斎です。 さらに別格で、武蔵の引き立て役となってしまった佐々木小次郎がいます。

中条流は、戦国期には比較的広く普及していたので、 江戸初期までなら全国の剣客が名乗っていて不思議ではありません。

特徴

現在、中条流がどのような技法を持っていたのかはあまり残っていません。 典型的な戦国期以前の古流として、 単純ではありますが激しい剣であり、また死を恐れぬ精神面を磨くことで、 高い水準を保っていたと想像されます。

また、特に富(と)(だ)勢源の「富(と)(だ)流」は 小太刀の扱いが精妙でした。

著名人

富田勢源 (とだ・せいげん) (1524?--?)

目を病んでいながら、小太刀の名人であり、 その流派を人に「富田流」と呼ばれたほどの名手です。 「名人越後」こと富田越後守重政は、勢源の弟の娘婿、つまり義理の甥にあたります。

勢源が美濃に逗留していたときです。 武芸好みの領主、斎藤義龍(よしたつ)が 世話をしていた梅津某という兵法者が、 勢源に試合を望みましたが、 勢源は「私の刀法は人にお見せするようなものではありません。 立ってのお望みであれば、越後に甥の重政がおりますから、 そちらをお訪ねなさい」と相手にしません。 これを聞いて梅津が「勢源という奴、越前では多少有名だが、 所詮井の中の蛙、わしと闘うのは恐いとみえる。 わしは、試合とならばたとえ領主であっても容赦しないからな」と言います。 これが義龍の耳に入り、立腹した彼は早速に勢源に使いをだし、 梅津と立ち会うよう命じました。「御領主の命とあれば是非もなし」と、 勢源は梅津と立ち会うことにしました。

立ち会いの当日、 薪を持って立ち会いの場に臨んだ勢源に梅津は憤慨し、 真剣での立ち会いを望みますが、勢源は「お主が真剣がよければそうするがよい。 わしはこの薪でよい」というので、仕方なく梅津も木刀を構えます。 大兵の梅津に対して、小柄で目の悪い老人の勢源はいかにも哀れでした。

ところがです。試合は、勢源の薪のただ一打ちで梅津は額から血を流して倒れます。 屈せず脇差を抜く梅津に対して勢源はもう一打ち。 これで梅津の命は絶たれます。 あまりの精妙な技に感じ入り、義龍はしばらく滞在するよういいますが、 勢源はそのまま立ち去りました。

富田越後守重政 (とだ・えちぜんのかみ・しげまさ) (1564--1625)

加賀・前田家の重臣として1万3千石以上の扶持を得て、 俗に「名人越後」と呼ばれた重政は、勢源の甥に当たります。

残念ながら、彼が「名人」と呼ばれるに至った試合などの記録は残っていません。 しかし、その片鱗を示すような、次のような逸話があります。

ある時、重政が小姓に髭をそらせていました。小姓は、 「いくら殿が名人だったとしても、このときに首を掻き切ったらひとたまりも ないだろう」と考えました。すると重政が不意に「出来もせぬのに、物騒な ことを考えるのではない」と言ったので、小姓は考えを読まれたことに 驚き、恐れ入ったそうです。

佐々木巌流小次郎 (ささき・がんりゅう・こじろう) (?--1612)

驕慢(きょうまん)な美青年剣士というイメージのある小次郎ですが、 その実態は謎に包まれています。

佐々木巌流の名が初めて出てくるのは、宮本武蔵の史伝「二天記」ですが、 ここに、巌流の又の名を佐々木小次郎といい、年は18であると書かれています。 しかし「二天記」は武蔵の死後100年ほどでまとめられており、 その記述には他の資料と矛盾する面も少なくないため、 小次郎についても鵜呑みにしがたいところがあります。 富田勢源に師事したとされていますが、 もし小次郎18歳説が正しければ、勢源が80近くに弟子入りしたことになり、 無理があります。その弟子の 鐘捲(かねまき)自斎の弟子ではないかとする説も有力です。

武蔵と対決した頃には、小倉の細川家に剣術指南役として 召し抱えられていたようです。 このとき「巌流」という流派を自ら唱えていました。 いくら天才剣士とはいえ、18歳では一流を唱えるにも若すぎますし、 何といっても、大名が剣術指南役として召し抱えるのには 無理があるように思えます。 結局、武蔵(当時29歳)の10歳ほど年上ではなかったかと考えられています。 40前後となりますと、剣客として油の乗り切った時期であり、 武蔵の最後の決闘相手としてふさわしいように思えます。

また、巌流島の決闘で振るったと言われる「燕返し」ですが、 彼がこのような名前の技を使ったかはさだかではありません。 鳥取藩に伝わる「岩流剣術秘書」に 「虎切(こせつ)」という技があり、 これが左→右→左と刀を返す技です。 すなわち、燕返しとはこの「虎切」を称しているのではないかと考えられます。

しかし、海燕を斬って開眼したという逸話といい、 「燕返し」という名前といい、 小次郎18歳説にはなんともふさわしい名前ではありませんか。

神道無念流(しんとうむねんりゅう)

開祖

福井兵右衛門

成立

江戸中期

歴史・概要

幕末の江戸三大道場の一つ、斎藤弥九郎の道場、練兵館の流派です。 練兵館は長州藩とつながりが強く、桂小五郎(後の木戸孝允)が 一時期塾頭を勤めていたこともありました。

神道無念流は上州(群馬県)から江戸に降りてきた流派ですから、 ここのあたりの人間が学ぶことが多いです。もちろん、上記のように 長州藩士が数多くいました。

特徴

流祖の福井兵右衛門は、 若い頃に一円流という新陰流派の流儀を学んでいますから、 流れとしては新陰流系といえます。

幕末に流行した流派の例にもれず、竹刀による稽古試合を重んじます。

極意は「人心鏡の如し」、ただただ相手の出るのに対して鏡のように自然に応じる、 無念無想の境地を目指します。 そのために、師匠からの教えをそのまま受け止めるのではなく、自ら高めていく、 不断の努力が必要なのです。

著名人

斎藤弥九郎善道 (さいとう・やくろう・なおみち) (1798--1871)

剣術界きってのインテリであり、神道無念流の名を高めた剣客として有名です。 まさに時代が要請した剣術家の一典型といえましょう。

弥九郎は越中(富山県)の仏生寺村の農家の生まれです。 幼いときから薬問屋の家に奉公に出され、 彼は15の年に学問を志し、わずか1分の金を旅費に江戸に出て、 ある旗本の小者として雇われました。 彼の懸命な学問への情熱が主人の目に留まり、 「学問よりまず剣術を学びなさい」と、神道無念流、 岡田十松吉利の撃剣館に入門します。 ところが生来体が丈夫で、なおかつ何事にも熱心な弥九郎は、 見る見るうちに剣術が上達し、若くして師範代を勤めるまでになります。 江川太郎左衛門、藤田東湖、渡辺華山といった知識人たちとは、 撃剣館の同門として知り合いました。

やがて独立し、練兵館という道場を開きました。 練兵館は、神道無念流の剣はもちろんのこと、 手習、素読(そどく)、砲学、西洋兵術までも学ぶ、 未来の日本に必要な人材を育成する場でした。 「剣を学ぶものは、竹刀を振るだけでなく、広く見識を持つべし」 という彼の考えが、そのまま現れた道場といえます。

練兵館からは、弥九郎の長男新太郎、次男の鬼歓(おにかん)こと 歓之助、別格で仏生寺弥助という名人が生まれました。

仏生寺弥助 (ぶっしょうじ・やすけ) (1829--1863)

斎藤道場の仏生寺といえば、知る人ぞ知る江戸随一の腕前でした。

越中・仏生寺村(後の師匠、斎藤弥九郎と同じ生まれです)の百姓の子として 生まれた弥助は、 江戸に出て、斎藤弥九郎の同郷という縁で、 練兵館に下働きとして住み着くようになります。仕事の合間に道場の様子を覗いていると、 御隠居と呼ばれる師範代の岡田十松利貞(先代で斎藤弥九郎の師である十松吉利の子)に それを見つけられました。十松は試しに弥助を道場にあげてみて、 彼が恐るべき剣の天才であることに気づき、道場での稽古を許します。

天性の身のこなしに加えて、教えられたことを次々と吸収する弥助は、 見る見るうちに練兵館では敵なしになっていきます。 剣客となった彼は、ただの弥助ではおかしかろうと言うことで、 生まれ故郷である仏生寺を名乗るようになりました。

しかし、竹刀を取っては無敵の彼にも弱点がありました。文盲だったのです。 練兵館では文武両道をモットーとしていたため、師の弥九郎も、 弥助に目をかけていた岡田十松も、弥助の才能を何としても世にだそうと、 弥助に学問を身につけるように薦めたのですが、 彼はまったく取り合いませんでした。 剣をもって生きられれば、出世など不要だと考えていたのでしょう。

あまりにも強かった彼ですが、 師の斎藤弥九郎の息子、新太郎と歓之助との試合では、必ず勝ちを譲りました。 これがむしろ新太郎には気に触ったらしく、 弥九郎亡き後は特に疎まれたようです。 そんなこともあって、練兵館を挙げて長州に攘夷の加勢に行こうとした際、 彼は京で袂を分かち、 最後は痺れ薬を飲まされて 斬殺されてしまいます。

鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)

開祖

桃井八郎左衛門直由(もものいはちろうざえもんなおよし)

成立

江戸末期

歴史・概要

千葉・斎藤と並び称される桃井(もものい)の士学館、通称 「あさり河岸(かし)の道場」の流派です。

流祖の八郎左衛門も、その養子・春蔵直一も、 特に剣名が高いわけではありませんでしたが、 士学館には多くの入門者が詰め掛けました。 それは、町人たちに対して広く門戸を開いたからです。 幕末にはこのような道場も多くありましたが、 直由が士学館を建てた安永2年(1773)には、 武家階級以外のものが道場に通うということは少なく、先駆的なことだったのです。

あさり河岸と土佐藩邸が近かったため、 土佐藩士の武市半平太、岡田以蔵らがここで学んでいます。

鏡新明智流を学んでいるのは、剣客・武士・町人と多層にわたります。 ただしエリア的には、土佐藩士を除いては、江戸以外にはほとんど広まっていないと考えられます。

特徴

幕末の流派によくあることですが、 当流も、これといった新規性のある特徴はありません。 それよりもむしろ、稽古試合を通した剣術の普及を目指したものといえます。

流祖の直由も、その養子で士学館創立当時の師範代であった直一も、 あまり試合は強くなく、他流試合にはしばしば負けをとったそうです。 しかし、入門者は絶えることなく、道場はますます繁盛しました。 剣術を広めるという意味からすれば、まさに大成功だといえます。

鏡新明智流は「位(くらい)」を奥義とします。 位とは気品・風格といったことで、 相手を闘わずして心で威圧すること、と解釈すればよいでしょうか。 特に4代目・桃井春蔵直正は、教養もあり、その折り目正しい剣は 他を寄せ付けませんでした。

著名人

岡田以蔵 (おかだ・いぞう) (1838--1865)

幕末の「人斬り」の一人です。

土佐の下士の家に生まれた彼は、 やがて武市(たけち)半平太 (瑞山(ずいさん))の道場に入門します。 武市が江戸に上り、鏡新明智流の士学館に入門した際、 彼も共に入門します。

彼は、剣の腕こそ確かでしたが、 剣を持って心を磨くまでには至りませんでした。 師である瑞山が土佐勤王党の党首になったとき、 瑞山の命ずるままに殺人を繰り返しました。

最後は落ちぶれ、坂本龍馬から借り受けた差料も売り払う始末でした。 京の奉行所に捕まり、無宿人として追放されたところを、 勤王党の追い落としにかかっていた土佐藩の刑吏に捕まります。 以蔵が攻めにもろいことを知っていた瑞山は、 勤王党の暗殺について白状されることを恐れ、 獄中の以蔵に毒を差し入れて自殺を勧めます。 これに彼は憤り、勤王党のために自分がやった殺人を白状して、 処刑されたのです。 このため、武市瑞山も切腹に追い込まれてしまいました。

そんな彼ですが、ただ一度、自分の意志で行動したときがありました。 坂本龍馬の仲介で、勝海舟の護衛をつとめた時期です。 あるとき、勝が刺客に襲われ、それを以蔵が斬り捨てました。 「何も殺すことはないではないか」と咎める勝に対し、 以蔵は「しかし、斬らなければ先生が殺されていました」と答えたそうです。 勝の、そして仲介者の龍馬の人柄が、知らず識らず以蔵に影響を与えていたのでしょうか。

心形刀流(しんぎょうとうりゅう)

開祖

伊庭是水軒秀明

成立

江戸初期

歴史・概要

流祖・伊庭(いば)是水軒が、 柳生流、一刀流など、 他流の良いところを集めて構成した統合武術です。

江戸の剣術界で占める位置はそこそこのものがあり、 特に幕末では、千葉・斎藤・桃井の三道場に加え、江戸の四大道場と言われました。 伊庭道場の入門者は男谷道場と同じく幕臣が多く、 伊庭道場の剣士のなかには、戊辰戦争で幕府側に立って闘ったものが多くいました。

心形刀流を学ぶのは、江戸に住んでいる剣客や、幕臣あるいはその子息が多いです。

特徴

統合武術という性格上、明確な特徴というのはありません。 ただし、 一に「心」、二に「形」という 流派名にも表れているとおり、他流よりも心法を重んじるところがあります。

著名人

伊庭八郎 (いば・はちろう)(1843--1869)

心形刀流八世、伊庭軍兵衛の子です。 小さい頃から剣の腕で認められ、「伊庭の小天狗」と呼ばれましたが、 戊辰戦争のさなかに戦病死しました。

伊庭家は四代目の軍兵衛秀直から幕臣に取りたてられたため、 八郎も幕臣の一人として、戊辰戦争では幕府側に立って戦いました。

官軍の箱根越を阻止する戦いのときです。 官軍側の小田原藩兵に囲まれ、孤立した八郎たちは必死に闘います。 ところが、小田原に伝わるある流派の、小手をねらう嵌(は)め手を避けきれず、 八郎は左手を切り落とされてしまいます。 八郎は道場剣術は無敵の強さを誇ったのですが、戦いというのは何があるかわかりません。

腕を失っても、八郎の幕府への忠誠心は変わらず、 榎本武揚らについて箱館まで行きます。 ここで、右手一本で刀を振るい、官軍を震え上がらせた八郎ですが、 大砲の至近弾に巻き込まれて倒れてしまいます。 このときに折悪(おりあ)しく肺結核が発病して体力が衰え、 ついに若い命を散らせてしまうのです。

松浦静山(まつら・せいざん)(1760--1840)

松浦静山は、平戸藩の藩主、つまり大名でありながら、 「常静子」を名乗る心形刀流水谷派の正統であり、立派な剣客でした。

彼の功績は何といっても、心形刀流の理論・業(わざ)をまとめた数々の著作です。 278巻にわたる「甲子夜話(かつしやわ)」 (この中にも、心形刀流をはじめとする剣談が数多く収録されています)という 近世随筆の白眉を著した筆まめの静山は、心形刀流こそ「本心を練る」ことを目指すものであると 喝破します。 剣で培った心を日々の生活に生かす、という彼の考えこそ、 大名剣客にふさわしいといえるでしょう。

天然理心流(てんねんりしんりゅう)

開祖

近藤内蔵之助長裕

成立

江戸中期

歴史・概要

成立は寛政時代と、比較的新しい流派です。 鹿島新当流を学んだ近藤内蔵之助が創始しました。

新選組の中核メンバーである、近藤勇、土方蔵三、沖田総司などが この流派です。特に近藤勇は、天然理心流の第4代宗家です。

天然理心流は多摩地区の郷士や名主といった、武家階級ではないが懐が豊かな 階級に広く広まっています。

特徴

天然理心流は、剣術、柔術、棒術、気合術を含む総合武術です。 むしろ戦国期に多かったような実戦性の強い流派で、 そのためか、武士よりもむしろ多摩地区の豪農層、 あるいは八王子の千人同心などの間で広まっていました。 豪農への出稽古が、道場収入の大半を占めていたのです。

一般に当流は、竹刀稽古には弱く、実戦に強いとされています。 上記のような成立を考えると、それもうなずけるといえましょう。 稽古試合だけで通じるような小手先のテクニックを伝える流派ではないのです。

あと、残念ながら二代目の近藤三助で途絶えてしまいましたが、 当流には「気合術」という奥義がありました。 離れていても、相手の人数が上回っていようとも、 こちらの気合をもって相手の気力を奪ってしまうというもので、 これをかけられると、たとえ鉄砲を持っていても身動きが取れなくなるという 恐ろしい奥義です。

著名人

近藤勇 (こんどう・いさみ) (1834--1863)

新選組の局長であり、天然理心流の第4代宗家でもあります。 天然理心流の宗家は代々養子であり、彼も先代の養子です。

近藤勇といえば、道場剣術はへたくそで、度胸で斬るといった印象がありますが、 本当にそうだったのでしょうか。 確かに、勇の道場である試衛館では、 道場破りがくるたびに、斎藤弥九郎の練兵館に使いをだし、 当時練兵館にいた渡辺昇に代わりに立ち会ってもらったという逸話が残っています。 道場剣術があまり得意でなかったのは本当でしょう。

しかし、度胸剣法というのはどうでしょうか。 池田屋の斬り込みの際、斬り合いが終わったあとでも、 勇の刀はほとんど刃こぼれもなく、すっと鞘に納まったそうです。 日本刀というものは扱いが難しいもので、 ほんの少しのミスでも刀は痛んでしまいます。 池田屋の激しい斬り合いの中で完璧ともいえる剣さばきを見せた勇が、 果たして度胸だけの剣客といえるでしょうか。

しかし、これだけの剣の腕を、徳川幕府は必要としなくなっていきました。 鳥羽・伏見の戦いで掲げられた錦の御旗に仰天し、 ひたすら恭順を言い立てる徳川慶喜とその周りにとって、 新選組のような急進派は邪魔だったのです。

勇は「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」の隊長を命ぜられ、 10万石の大名格となりました。 彼は剣をもって真の侍となる悲願が達成されて喜びましたが、 これは実は、急進派たちを江戸から遠ざけ、無血開城するための策だったのです。 鎮撫隊は勝沼で敗れ、勇たちは流山に逃れますがここも囲まれ、 ついに勇は官軍に捕らえられます。 そして慶応4年(1868)の4月25日、板橋の刑場の露と消えました。

土方蔵三 (ひじかた・としぞう) (1835--1869)

写真を見るといい男です。それはよいのですが、 土方というと非情で、隊士に次から次へと切腹を命じた鬼のような男というイメージが ありました。 現在では、土方蔵三こそが新選組の組織としての地盤を固めた功労者だという 認識ができています。 土方あっての新選組、そして土方にとっても、新選組あっての土方だったのではないでしょうか。

竹刀稽古はあまり好きではなかったようですが、 太刀裁きは力強く、スピーディでしかも重く、 とくにそれは真剣の斬りあいで威力を発揮しました。

新選組副長として京都で名を轟かせてから、 近藤勇と甲陽鎮撫隊に参加、勇と別れて榎本武揚の率いる箱館共和国に参加し、 最後まで官軍に抵抗しました。 結局、函館で壮烈な戦死を遂げました。

沖田総司 (おきた・そうじ) (1844--1868)

試衛館の逸材、三段突きの名手でありながら、 人一倍子どものようなところがあり、結核で若い命を散らしたということもあって、 新選組のなかで女性に最も人気のある剣客です。

しばしば、近藤勇の弟子だったように間違われますが、 実は試衛館の兄弟弟子であり、 そのなかで勇が養子に選ばれたと言うのが本当のところです。

試衛館仲間の中では道場剣術もうまく、新選組の稽古場でも別格の強さだったそうです。 一種の天才の彼が新選組の稽古をさぼって、子どもと遊んでいたというのが面白いですね。

彼も新選組の一員として、数々の殺人に携わってきましたが、 池田屋事件のときに吐血して以来、持病の結核が急速に悪化し、 25歳の若さでこの世を去りました。 最後に黒猫を斬ろうとして斬れず、涙したという話は、 剣の天才である総司を考えると悲しいものがあります。

新当流(しんとうりゅう)

開祖

塚原卜伝

成立

戦国末期

歴史・概要

元々の流れは、飯篠長威斎(いいざき・ちょういさい)が興した、 鹿島神道流と呼ばれる流派です。 常陸国(ひたちのくに)(今の茨城県)・鹿島神宮は、 上総(今の千葉県)の香取神宮と並んで、 平安の昔から、東北に旅立つ防人たちの兵士訓練の場でした。 したがって、この地には比較的古くから剣術というものの種が蒔(ま)かれており、 それをまとめたのが長威斎です。

新当流の流祖・塚原卜伝も長威斎を師としており、 もともとは神道流を名乗っていたのですが、名が知られるうちに、 いつのまに新当流と呼ばれるようになっていました。

新当流という流派自身は古流とされており、 江戸も中期を過ぎると積極的に学ぶものはいなかったようです。 無論、鹿島の土地は別ですが。

特徴

新当流、という言葉の意味は、 「心を新たにして、敵に当たる」ということだそうです。 これにもよく表されているように、基本的には上段の構えで、 相手の出るところをただ打つ、という単純な闘法だったようです。

新当流の最大の特徴は、何といっても「一の太刀」でしょう。 これほど有名で、なおかつ実態の知られていない奥義もありません。 作家・戸部新十郎は、その著「兵法秘伝考」で、 相手に何らかの誘いをかけたのち、余計なことを考えずただ一太刀で打ち破る、 というような解釈を提示しています。

著名人

塚原卜伝 (つかはら・ぼくでん) (1489--1571)

「一の太刀」の創始者、「新当流」の流祖です。 鹿島の神官の家に生まれた彼は、不幸の剣豪将軍こと足利義輝に剣を教え、 最後には大名並みの行列を連れて歩くまでに至りました。 戦いに出ること37度にして、矢傷以外を受けたことがない、というからすごいです。

第1章で延々と肴にしましたので、 詳しく語るのは止めましょう。 とにかく、日本を代表する偉大なる剣客であることは確かです。

念流(ねんりゅう)

開祖

相馬四郎義元(念阿弥・慈恩)

成立

室町期

歴史・概要

父を謀(はか)りごとによって殺された相馬四郎義元が、 出家して念阿弥(ねんあみ)と称しながらも 敵を討つために修行をしている最中、神からの啓示を受けて会得した流派です。 義元は見事に仇討ちを果たし、禅門に入って慈恩と名乗ります。

念流のうち、有名なのは「馬庭念流」と呼ばれる流派です。 慈恩の高弟・樋口太郎兼重からの流れで馬庭に伝わり、 一時期は途絶えましたが、戦国末期、念流宗家八世・樋口又七郎定次によって 復興され、その後、樋口家によって代々受け継がれていきました。

歴史からすると非常に古い剣術ですが、 たとえば同じぐらい古い中条流が、 幕末には古流としてほとんど省みられなかったのに対し、 念流は、上州・馬庭土着の剣術として、幕末にもしっかりと生き残っていたのです。

特徴

一刀流や新陰流のような新しい流派とは、構えからして異なります。 腰を低く落とし、股を前後に大きく開き、刀を立てて構えます。 まるでカエルが跳びかかるような姿勢になります。 体から剣が生えたように見えるため「体中剣」と呼びます。 念流では、この構えを支えるための強靭な足腰を作るため、 構えた上に人が二人乗って揺さぶるという稽古を行います。

竹刀試合が盛んな流派に見られる、背を伸ばした構えからみると鈍重に、 ときには滑稽に見えます。 確かに、足場がよい道場での試合では、 からだが軽快に動かない姿勢は不利かも知れませんが、 実戦からいうと、念流の構えは泥田の中で闘うときでさえ 体が動かせる、優れた構えなのです。

念流は、基本的には殺人の剣ではなく、自衛の剣であり、 体中剣の構えから、相手の攻撃を「はずす」技術がその源です。 相手の攻撃をひたすらかわしにかわすのですが、 相手の刀が7分どころまで迫ったならば、もはやかわすこともならず、 一転して打って出ます。このとき、渾身の力をもって打ち下ろし、 相手は避けることもできずに倒されてしまいます。これを「斬り割る」といいます。

また、念流に伝わる奥義「米糊(そくい)つけ」は、 相手の刀を受けると、 それがまるでトリモチに取られたようになり、相手の自由を奪う技です。 こちらはさほどの力を必要とせず、相手が引きはずすには非常な力を必要とします。 % 護身・自衛の剣術である念流にふさわしい奥義です。

著名人

樋口又七郎定次 (ひぐち・またしちろう・さだつぐ) (??--??)

念流を馬庭に根づかせた功労者です。

慈恩の高弟・樋口太郎兼重の孫・新左衛門高重は、 武芸に生きることを決意し、上州・馬庭に道場を開きました。 後に高重は念流から鹿島神道流に流派を移りました。

その曾孫(ひまご)の又七郎は、最初は家伝の神道流を学び、達者となりましたが、 あるとき、樋口家に伝わる「念流正法兵法未来記」なる文書 (もんじょ)を見つけ、 念流を極めたいと願います。

このとき偶然に、眼医者であり念流7世の友松偽庵が訪れます。 もはや兵法は捨てた、眼の不自由なものを救わねばならない、と説く偽庵に懇願し、 偽庵の薬箱を背負って諸国を旅すること17年、ついに偽庵より目録・免許を与えられ、 念流8世と認められました。

長い旅から馬庭村に戻り、念流を伝えはじめた又七郎ですが、 その2年後、高崎に道場を持つ天道流の村上権左衛門から卑怯にも誹謗 (ひぼう)され、 幾度も挑戦を受けます。 どうしても断れなくなって挑戦を受けた又七郎は、 権左衛門の頭蓋を、受けた木刀ごと打ち割って即死させます。

その後、又七郎は忽然と姿を消します。 師・偽庵から禁じられた他流試合で死者を出したことを恥じたのでしょう。

無外流(むがいりゅう)

開祖

辻月丹(無外)

成立

江戸初期

歴史・概要

江戸初期に起こった流派で、現在は居合いしか残っていませんが (小説家の戸部新十郎は無外流の居合いを学んでいます)、もともと、 流祖の辻月丹(号を無外(むがい))が、 自らの剣術に禅を取り入れて創始した流派です。

月丹以来、代々独身を通し、弟子の中で特に優れたものを養子にする形で、 高い水準を保った無外流の辻道場ですが、そのストイックさのためか、 辻道場は衰退してしまいます。 現在では、途中で派生した高橋派が伝わっています。

特徴

先ほども述べたとおり、無外流は禅と密接な関わりを持ちます。 まさに剣を持って行う禅であるといえます。

辻道場の修行は「求道(くどう)の剣」ともいえるもので、 あくまでも厳しく、実践主義的で、真理の探究だけを目指したものです。 これは代々の無外流に受け継がれていきました。

なお、居合いは月丹の創始によるものではなく、 4代目の辻(都治)資幸の高弟、高橋八郎充亮が取り入れたものです。 彼は、無外流高橋派を起こし、これが現在にも続いています。

著名人

秋山小兵衛 (あきやま・こへえ) (1721--?)

池波正太郎「剣客商売」の主人公です。

小説の設定では、 無外流の本流である辻道場で学んだ、ということになっています。 小兵衛は辻道場の後を継ぐ資格は十分にありましたが、 本人が未熟であると固辞したということです。オイシイ設定ですよね。

辻道場の「求道の剣」と言うべき厳しい修行に耐えぬいた技は、 老いてますます冴え、まさに名人とは彼のことである、というべき高みに達しています。

しかし、若き日は剣術にストイック打ち込んだ小兵衛が、 孫のような妻を得て洒脱に暮らしているというのも面白いですね。

介者剣術(かいしゃけんじゅつ)

開祖

(特になし)

成立

戦国時代以前

歴史・概要

介者剣術とは、剣術が成立する前の戦場での闘法であり、 体力に優れた偉丈夫がより強さを発揮するものです。

戦場の主武器は、南北朝の頃は薙刀や長巻(柄が短くて刃渡りが非常に大きい薙刀の一種)、 戦国時代は槍でしたが、それでも刀(太刀)の扱いは、徒士戦を制するのに重要だったのです。

特徴

素肌剣術(防具を付けない剣術)に比べると粗削りですが、 ルール無用で、負け即死を意味する戦場での闘いを制するために、 実にさまざまなバリエーションを持ちます。

例えば自ら倒れ込んで股間を突く、相手の脇などの甲冑の隙間をねらう、 腕力に任せて兜ごと頭を殴りつけて昏倒させる、などです。

ルールがある程度決まっている道場剣術にはない、 凶悪ともいえる攻撃がそこにはあるのです。


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