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第一章 武術とは何か


一口に武術、と言いますが、単なる戦闘術であった武術を芸道化し、 現在にいたるまで脈々と続いているのは、 我が国に特徴的なものです。 武術は武芸、そして武道へと発展していき、 我々日本人の精神にも大きな影響を与えたのです。

ここでは、特に剣術を中心にした武術の歴史、分類などを通して、 武術とは何かを探ります。

武芸者をロールしたり、 武芸者用のシナリオを作るための参考にしてください。

武術の歴史

我が国において、剣術を始めとする武術が体系化され、 整理されたのは、戦国時代末期であるといわれています。 それから江戸時代にかけて発展し、 江戸中期には一旦形骸化、衰退しましたが、 幕末には再び盛んになり、空前の剣術ブームとでもいえる時代が到来しました。

ここでは、各時代における武術の、 そして武芸者の位置付けはどうだったのかを見てみましょう。


戦国末期から江戸初期

前述のように戦国時代末期から江戸初期にかけては、 源平合戦の頃から起こってきたさまざまな闘法が、 武術として整理され、 さまざまな剣豪たちがいろいろな流派を起こした時代です。

それ以前にも、東国には鹿島神流、香取天真正伝神道流、 西国には京流といった流派が存在しましたが、 戦闘様式の変化に伴い、さまざまな流派が生まれ、 なおかつ芸道化が進んだのがこの時代と言えます。

この時代の武術は、 宮本武蔵の「五輪書」の言い方に倣えば、 軍略などの「大なる兵法」と、 総合武術たる「小なる兵法」、 すなわち剣術、抜刀術、柔術、槍術などがすべて含まれていました。

戦国末期から江戸初期の武芸者

この時代の武芸者としての一つの典型が、塚原卜伝です。

鹿島神宮座主の子として生まれた彼は、鹿島神流・天真正伝神道流を極め、 「一ノ太刀」を会得した後、廻国修行に出ます。時に17才でした。

このころの廻国修行、つまり武者修行というものは、 単に武芸の修行のみならず、 野に体を横たえ、雨露をしのがず、 寒さは衣類のみで耐え、 人の往来しないところを一人で旅するという、 まさに強靭な心身を必要とするものでした。 厳しい環境に身を置き、 いくつかの試合(無論、命のやり取りをするものです)を経て、 武芸者たちは剣名を轟かせるようになるのです。

剣名が聞こえるようになると、 卜伝は、猩々緋(しょうじょうひ)の羽織 (赤は貴人の着るものとされていたため、一般には敬遠されていました)を着て、 廻国の際には大名のように大勢の伴を従えて行列するようになりました。

このように、大抵の武芸者は、 名が通ってくると人目をひく恰好をするようになります。 「我こそは××なり」と明らかにするためです。 宮本武蔵がいっさい入浴せず、 近くに寄ると悪臭を放つようであったとされるのも、 天流の斎藤伝鬼坊が、「伝鬼坊」などという名を名乗って、 羽毛で飾った装束を着て歩いたのも、この一例でしょう。 よほどの自信がないと出来ないことでもあります。

また、卜伝は、 北畠具教、足利義輝などの庇護を受け、 彼らに印可(いんか)(免許)を与えました。

このように、大名や土地の有力者の庇護を受け、 代わりに庇護者やその家来衆に武術を教えて印可や目録をさずけたり、 戦の際に働いたりすることは、 当時の武芸者としてはごく普通のことでした。 パトロンやスポンサーの存在は、 主人がいない武芸者の生計(たつき)の道で あるばかりでなく、一種の看板の役目を果たすものといえます。 なお、卜伝の場合でも明らかなように、庇護者は一人とは限りません。 放浪する場合は、土地ごとに庇護者がつくことが普通です。

無論、武芸者が武芸によって認められ、仕官をする場合もあります。 この場合は、主と家来の関係になります。 もはや勝手な廻国修行は出来ませんし、 いろいろと窮屈な面もあるでしょうが、 自らの理解者である領主の元で存分に腕を振るえる上に、 安定した生活が得られます。

ただし、武芸者の扶持はそれほど高くありませんでした。 例えば徳川将軍家の剣術指南役である柳生宗矩は1万石の扶持を得ましたが、 これは柳生家はもともと地方豪族で、 召し抱えられてからのさまざまな功績を合わせたからです。 純粋に兵法だけで得られる扶持としては、 同じく剣術指南役の小野次郎右衛門が300石、というのが参考になるでしょう。 宮本武蔵が細川家に召し抱えられたときは実米300石、 知行地に換算すると大体750石でした。これがほぼ最高の水準です。

さて、武芸者の本道たる試合についてです。 他流試合を好む流派、好まない流派とありますが、 命を掛けた試合も含めて、基本的には他流との交流は盛んに行われていました。

廻国修行をしている武芸者は、 新たに着いた土地の道場に出かけていったり、 あるいは市中に看板を立てて、立ち会いを望みました。 庇護者や領主によって、立ち会いがセッティングされる場合もしばしばあります。 宮本武蔵と佐々木巌流(小次郎)の立ち会いも、このようなものでした。


江戸中期

江戸中期は、武芸にとっての冬の時代でした。

確かに武士にとって、武芸は表芸ではありますが、 島原の乱を最後に戦乱が遠くなっていくにつれ、 武芸を学ばずとも武士は勤まるようになっていきました。

また、武芸自身も、型稽古の繰り返しによる形骸化、芸道化が更に進み、 開祖当時は平易であった理合(理論)を、 難解な言葉で権威付けをする方向に向かっていきました。 剣術の出来よりも付け届けの量が目録や免許を左右する、 という道場すら珍しくはありません。

一方、武術をより高めようという立場に立って、 さまざまな努力をしたものもいました。 開祖当時からの激烈な稽古でも止めずに残った弟子だけを徹底的に鍛えあげたり、 多少力量が劣っていても、ていねいに指導してある程度の実力を付けさせたりといった 地道な努力をする武芸者たちもいました。

この頃の武術は、ほぼ分化が終わり、 総合武術というのはむしろ少なくなってきました。 また、太刀打ちの術にしても甲冑武者を相手にしたものから、 平服の武者を相手にするものへと変化していきました。 盛んな武術は圧倒的に剣術です。 剣術では、竹刀、面小手の整備が進み、 韜袍稽古(とうほう)稽古(竹刀での実際の打ち合いをする稽古)が 盛んになりました。

江戸中期の武芸者

武芸者といっても、 れっきとした士分、つまり旗本・御家人であったり、 いずれの藩の藩士であるものは、 普段の仕事の合間に道場に通ったり、自宅で練習したりすることになります。

藩士であって江戸詰めならば、 武芸者が週に1回ほど藩邸に来るときに稽古することになるでしょうし、 許可を受けて町道場に行くことも出来ます。 国許には藩の武術指南役がいるか、町道場があります。

武術指南役とは、藩に抱えられ、扶持米を貰う立場のものです。 道場を開いていることが普通です。 ただし、指南役を特に置かない藩もありますし、 また滅多なことがない限り、 今の指南役をクビにして新たに召し抱えることもありません。

藩の領内に町道場を開くときには、一応藩に届けることになります。 藩に武術指南役がいない場合でも、 このような町道場は藩公認であり、藩士が来ることが考えられます。 ただ、扶持米を藩からいただいているわけではないので、身分は保証されていません。

武術のために生きるという純然たる武芸者の立場は、 先程述べたように、藩に扶持を貰って剣術指南役になる以外には、 (身分上は)浪人となってどこかの町道場に属すのが普通です。 師範代ともなれば、なにがしかの給金は得られますし、 あるいは自分が道場主であることもあります。

武芸者が道場主であるなら、 大身旗本や諸藩から、屋敷への出稽古を仰せ付かる場合もあります。 このときは、週に1回ほど屋敷に行き、数時間稽古を行います。 道場主が弟子を名代とする場合もあり、 普通は、名代が報酬のいくらかをもらいます。 出稽古に行く先の藩士や家士の何人かが、 稽古の日以外に、通いで道場に来るのが普通です。

さきほども触れたとおり、武芸者は一介の浪人にしかすぎません。 もちろん、仕官を望むことは出来ますが、 武芸が達者であるからといって、それが必ずしもプラスになるとは限りません。 平時には、武芸者よりも能吏のうりの方が求められているのです。

廻国(かいこく)修行といった習慣はめっきり減りましたが、 まったくなくなったわけではありません。 戦国末期ほど過酷な修行は行われなくなりましたが、 各地の道場をまわり、気に入った道場には数か月逗留する、 というのは、(仕官をしていない)武芸者としてはふつうのことです。

他流試合は、めっきり数が減りました。 というのは、武芸が芸道化し、各流派がその面目を考えるようになると、 他流試合に敗れるというのは非常に不面目なことであり、 それは避けなければならないからです。 それに、 時代が落ち着いてくるにつれ、 立て札などを立てて、 町中で立ち会いを望むのは治安の乱れにつながるとして 敬遠されるようになりました。

しかし、道場破りなどはまだありますし、 流儀の面目などよりも自らの武術を極めんとするものも多くいて、 命のやり取りを含む試合というのも、まったくなくなったわけではありません。 武芸の試合によって死者が出ても、殺人とはされなかったため、 自らの境地を確かめるため、真剣勝負を挑む武芸者は決して少なくなかったのです。


幕末

幕末には、衰退していた剣術が再び隆盛となりました。 古流に加えていくつかの新流派が生まれ、 道場は大勢の人で賑わいました。

武芸はもはや武士だけのものではなく、 郷士や町民たちも、町道場に通ったり、出張稽古を願ったりしていました。 江戸においては、町道場の試合の様子が一般市民の間でも話題になり、 瓦版のネタになったりしました。

そして、維新の嵐が吹き荒れる中、これらの武芸を身に付けたものたちが、 さまざまな活躍をしていくのです。

幕末の武芸者

幕末においても、武芸者の位置はおおむね変わりません。 独立の剣客として道場を構えるか、大名や旗本の家臣となって 禄を食む(はむ)しかありません。

しかし、町道場は、江戸中期とは比べ物にならないほどの活況を呈しました。 また、各藩も武芸者を高く評価し、 武芸が単なる芸だけではなく、 役に立つものとして再認識されるようになりました。

特に、郷士や町人といった非武家階級のものにとっては、 武術、特に剣術は、 武家階級に上がるための手段として考えられていました。 薩摩の田中新兵衛(商家の出)、新選組の近藤勇(郷士)などがこれに当たります。 彼らは、時代のうねりの中で武家階級を手に入れようとあがき、 そのために若い命を散らしていきました。

この時代には、再び戦国時代と同じような武者修行が盛んになりました。 武者修行では、悪路を歩み、雨露をしのがず、 手裏剣をとばして小動物を捕らえて飢えをいやすという過酷な生活を行います。 そして3年ほどたつと、 ようやく他の道場などでほかの武芸者に対して、 「少々使える」と名乗れるようになるのです。


明治初期

260年間の長きに渡る江戸時代も終わりを告げ、 明治の世になりました。 髷まげを切ることが一般化し、社会が急速に西欧化するなか、 ついに廃刀令が施行され、剣術を始めとする武術も旧態なもの、 捨て去るべきものとして、急速にすたれていきました。

これを憂えた直心影流の榊原健吉は「撃剣興行」を始めます。 これは、剣術の試合をちょうど相撲のように見世物にし、金を稼ぐというものです。 撃剣興行は旧士族、そして刺激に飢えていた東京府民にたちまち受け入れられました。 撃剣会は全国に数多くでき、 旅回りの一座のように全国を旅して撃剣を見せるようになりました。 それにしても、見世物として剣を振るうというのは一種の剣術の堕落であり、 依然として武道にとっては不遇の時代でした。

明治初期の武芸者

明治時代の武芸者は、さきほども述べたように、 まずは非常に苦しい時代をすごさねばなりませんでした。

維新の時代に幕府の側について闘った、例えば新選組や新徴組、 京都見廻組のメンバー、あるいは上野彰義隊、戊辰戦争の生き残りたちは、 明治政府から許されたとはいえ、困窮きわまる生活を強いられました。 旧幕臣は静岡の徳川藩70万石に転封され、 特に苦しい生活が続きました。

一方、官軍側であっても、 役人として官庁に入ることができた一部を除けば、 あとは単に士族となり、仕事もなく、 しかたなく始めた商売もうまく行かない、というケースが多くありました。

町道場も、廃刀令に象徴される西欧化政策のあおりを食って、 急速にすたれていきました。 幕末の頃の隆盛が嘘のように、多くの道場は寂れてしまったのです。

この頃の武芸は、 撃剣興行と警察で、辛うじて生きのびていた恰好になっています。 武芸者は、このいずれかに携わるか、 ほかの仕事をしつつ、 その稼ぎで辛うじて道場を維持するしかありませんでした。 山岡鉄舟のように、明治政府でそれなりの役割を与えられ、 さらには困窮する弟子たちに仕事を紹介したりして、 道場を維持して剣術に専念できたのは、非常に幸運であったといえます。

撃剣興行は、腕に自信があり、 かつ政府によい感情を持っていない人間が集う場所となりました。 最も、当時の士族のほとんどは政府に対してよい感情を持ってはいませんでしたが。 撃剣興行はおおむね成功したとはいえ、 剣は見世物に流れ、 剣の道を極めようとするものがいる場所ではありませんでした。

警察も若干の武術が残ってましたが、 それが注目され、盛んになるのは明治中期以降になります。


明治中〜後期

武術にとっての闇の時代に曙光(しょこう)が射したのは、 明治10 (1877)年の西南の役(西南戦争)がきっかけです。 この事件において、薩摩人に多くいた示現流および薬丸自顕流の使い手に対抗するため、 官軍は腕の立つ士族を集めて抜刀隊を組織し、戦場に送り込みました。 これをきっかけに剣術の有効性が再認識され、 警察での剣術の稽古が盛んになります。 明治19 (1886)年には、警視庁武道大会が初めて行われました。 嘉納治五郎が率いる講道館の面々が、警視庁の柔術家を下し、 「柔道」が警察に採用されるきっかけとなったのもこの大会です。

明治28 (1895)年、武術界に大きな転機が訪れます。 前年に起こった日清戦争の影響で剣術などの武術に対する関心が高まっていたなか、 京都で内国博覧会が開かれ、この会場において、 武道の振興、発展を目指した「大日本武徳会」が設立されたのです。 武徳会は順調に発展を続け、 明治39 (1906)年には全国に39の支部を持つ全国組織となりました。 そして、武徳会付属の「武術教員養成所」、 これを閉鎖し、新たに明治45 (1912)年に作られた「武徳学校」は、 明治から大正、昭和にかけて、優秀な武道教師を多く輩出しました。 ちょうど明治41年に、柔道、剣道が中学校の正課と定められたこともあり、 武徳会は大組織に発展していくのです。

明治中〜後期の武芸者

士族にとって、廃刀令によって刀が腰に差せなくなったのは非常な衝撃でした。 しかし、明治16 (1883)年に、警官が堂々とサーベル(の形をした日本刀)が差せるように 規則が改正されると、警察は一気に士族にとって憧れの場となりましたし、 警察も、撃剣が強い士族を多く求めました。 警察は旧薩摩の勢力が強かったため、 とくに鹿児島の士族が多く警官として採用されました。

そして、大日本武徳会が結成される頃には、 武芸は復興をほぼ果たし、 町道場もある程度は安定した地位を保つことができました。 道場主は武徳会の教官となったり、中学校の武道教師となったりもしました。 武徳会と警視庁による武術の大会は、全国から武芸者が集い、 流派、庇護者、地元、そして何よりも個人の名誉を背負って闘ったのです。

武術系技能 --- 武芸十八般 ---

ここでは、「秘伝の声」の武術系技能 (「基本ルール」丙ノ四「技能リスト」参照)を再構成したものです。

いわゆる「武芸十八般」と呼ばれるものがあります。 これは、代表的な武芸を列挙したものです。 もともと、「武芸十八般」という言葉は水滸伝からのものです。 古代中国の武術と江戸時代の武術が同じはずもありませんから、 十八般というのはきちんと決まっているわけではなく、十八という数に 特別な意味があるわけでもありません。 時代によってさまざまに変化していきました。

例えば意外なことですが、 合気道は明治時代になってから成立した武芸であり、江戸時代には存在しませんでした。 空手も、琉球には当然存在しましたが、 それが本土に上陸するのはだいぶ後の話になります。 これらは「武芸十八般」には入りません。

本書では、「誰が見ても武芸十八般に入りうる」武芸を武術系技能として挙げました。 ただしそれ以外でも、「秘伝の声」基本ルールで取り上げた技能については 簡単に解説しています。


剣術

もはやいわずとも知れているでしょう。 このサプリメントで中心的に扱っています。 日本刀(打刀、場合によっては太刀ともいう)を用いて戦う方法です。

剣術が「武術」となり得たのは、刀の鋭利な切れ味を非力な人間でも 生かすことができる、という意味で「術」なのであり、 この点が、剣術発生以前の闘法とは異なるところです。


抜刀術

俗に居合いともいいます。 初期のころは甲冑武者を斬るためのもので、下から股間を切り上げたり、 脇をねらったりしたものですが、 江戸に入ってからは、主に上意討ちの介添えなどに焦点が置かれました。 したがって、座敷に座った状態から刀を抜く法などがあります。

特殊ルール

《抜刀術》は、刀が鞘に納まっている状態からの攻撃で最も効果的に働きます。 このときの攻撃は常に「斬り」になります。 また、「近すぎる間合いの攻撃」の目標値修正を1減らすことができます。

刀を抜いてしまった後は、技能レベルから -2 して判定しなければなりません。

他の戦闘系技能の使用」ルールで《剣術》を使ったときの修正と同じです。


唐剣術

武芸十八般ではありませんが、 「秘伝の声」基本ルールで「唐剣」が触れられているので挙げておきます。 唐剣(中国系の直刀)を用いて闘う技能です。 日本の剣術と違った激しい動きが特徴です。


槍術

「そうじゅつ」と読みます。 読んで字のごとし、槍を使って戦う方法です。 戦国時代では、主要な武器は刀よりもむしろ槍でした。

江戸期に入ると槍術は剣術にその主役の場を奪われた形には なりましたが、まだまだ武士の表芸としての位置づけは大きく、 学ぶものも数多くいました。


薙刀術

薙刀、あるいは長刀と書いて「なぎなた」と読む武器を扱う武術です。 南北朝期くらいまでは、薙刀は武将の主武器として重んじられましたが、 戦国時代後期あたりから、薙刀は武士の芸というよりむしろ武家の女性の護身術、 あるいは一種の教養のものとして扱われていました。


柔術(捕縛術)

柔術といえば、柔道のイメージから投げと間接技が浮かびますが、 実際は総合組み打ち術であり、手足を用いた打撃技はもちろん、 十手などの武器を用いて戦う方法まで含まれています。 もとは、戦場でくんずほぐれつの戦いをいかに制するかを発展させたものです。

他の武術に比べれば、相手を傷つけることなく制圧できる点で優れています。 これを利用して改良、捕縛に特化したのが捕縛術です。


相撲

これもまた武芸十八般ではありませんが、取り上げておきます。

見ての通り相撲を取る技能です。相撲は元々、古事記にも載っているほど古い格闘技なのですが、 これは別の言い方を「コブシウチ」と言ったぐらいで、今の相撲とは全く別のものと思ってよいでしょう。

相撲が神事として天皇の御前で行われるようになると、 流血が起こって凄惨になりがちな打撃技が禁じられ、今の形にだんだん近くなっていきます。 また、力士の裸の肉体は、大地の豊穣を示しているという説もあり、 まさに相撲こそは、農耕社会日本を象徴する武芸であったといえます。

相撲の技というと投げがすぐに浮かびますが、最も恐るべき破壊力をもつのが 「ぶちかまし」です。 力士は、あの体重でありながら筋脂肪率が普通の成人男性とほとんど変わりません。 ものすごい筋肉の量といえます。その筋肉のばねを生かして、 頭から体当たりをされると、ただではすまないでしょう。

江戸時代においては、力士は武芸者というより、一種の芸人のような位置づけでした。 また、力士上がりが博徒になったり、十手持ちになったりも比較的よくあることでした。


棒術

棒を持って闘う流派です。 剣や槍など、他の武器に比べると殺傷能力が劣るものですから、 この武術は、殺人術として発生した他の武術と比べて、 保身、あるいは試合を目的としているという点が異なるといえます。


弓術

弓も、戦国時代では重要な武器でした。 強弓(こわゆみ)と呼ばれる武器を馬上から射つ、 あるいは城にかかってくる敵に雨あられと降らす。 そうすることによって相手の戦力を一方的に削ぎ、 また敵の戦意を喪失させることができます。

鉄砲が使われるようになったとはいえ、その連射性とコストの低さから、 依然、弓は重要な武器であり、したがって弓術も、 武術としての重要性の高いものでした。

当然、武器としては和弓を用います。


砲術

鉄砲から大砲まで、いわゆる砲と呼ばれるものを扱います。 火薬の調合、砲の手入れ、弾丸(たま)づくり、 そしてもちろん射撃の技法についての武術です。


手裏剣術

和式投げナイフとでもいえる武器、手裏剣を扱う武術です。


馬術

馬に乗るさまざまな技法をまとめた武術です。 走りかたなどはもちろん、癖のある馬を乗りこなしたり、 あるいはその癖を取り除いたりすることができます。


水術

泳ぐ術です。というと簡単のようですが、 甲冑を着て泳いだり、 立ち泳ぎをしたりと、 戦場で役に立てるための泳ぎの技法を身につけるものです。


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