江戸は日本の首都という以外にも、東日本の商業流通の中継点でもありました。 西国から運ばれてきた商品は、江戸を通して東へ北へと流れていったのです。また 、百万人以上の人が住む都市だけあって、庶民相手の商売にも、実にさまざまな商 売がありました。それは都市の生活システムの一翼を担うものもありますし、商売 の形態も現在のものとは大きく異なっている部分もあります。
本章では江戸時代の商売について解説します。ユニークなものも多数登場します ので、商人でプレイしようと思っているプレイヤーは必読です。
問屋・小売店 |
問屋は小売店に対する販売店、いわゆる卸売業者ですが、専門店として小売りも 行っています。問屋の多くは豪商で、「大店」と呼ばれます。問屋が扱う商品は様 々ですが、各店では専門的に商品を取り扱っています。
江戸時代の商売の中心地は上方、つまり大阪を中心とした関西地方でした。大店 といわれる問屋の多くは、本店が関西にあり、江戸は支店という位置づけです。こ うした支店扱いの大店のことを「江戸店」と呼びます。また、大阪から海路を経て 江戸に入る荷物や商品を「下り物」といい、現代の高級ブランドのように扱われま した。これに対して、近郷から江戸に入る物を「地廻り物」といい、粗製品・安物 として扱われました。これが長じて、安物を表す「下らぬ物」という言葉が生まれ ました。
問屋の多くは日本橋から京橋にかけての通町に集中しています。このあたりは大 川沿いの河岸に近く、諸国から集められた商品は河岸に陸揚げされ、ここで売りさ ばかれていくのです。
以下に江戸に名だたる大店をあげてみましょう。
大店は主に金持ち相手の商売ですが、庶民を相手にした小売店ももちろんありま した。八百屋は現在よりも取扱商品が少なく、キャベツやセロリ、白菜などはまだ 日本にありませんでした。また、漬け物や乾物のようなものも扱っていました。他 にも、魚屋や古着屋、雑貨屋、菓子屋など、生活に必要なものを扱う店は現在同様 あったのです。職人が仕事場に店を構えている場合も少なくありません。ただ、近 所に店がないからといって、遠くの店までまで行くことはありません。近所に店が ない場合、必要な商品を売る行商人が流してきましたから、問題はありませんでし た。
金融業 |
江戸時代は、現代に比べると実に複雑な通貨体系でした。金、銀、銭の三種類の 独立した価格体系があり、しかも銀は重さで価値を決める計量貨幣でした。また、 江戸は金貨が使われていましたが、上方では銀貨が使われていましたので、上方か ら江戸に入る商品の決済には金・銭を銀に両替する必要がありました。
この複雑な貨幣金融経済のまとめ役が両替商です。両替商には、金銀銭の三貨の 両替を行いながら、貸付や為替手形の発行なども行う「本両替」と、金銀と銭の両 替をする「銭両替」があります。
本両替は、三貨の売買両替の他に、幕府や諸藩のの貢租などの公金の取り扱いや、 為替・預金・貸付・金融業務など、現代の銀行に近い役割を果たしています。そ のため、現代の大蔵省造幣局ともいえる金座・銀座に程近い、本両替町や駿河町に 集まっていました。
銭両替は、銭を主として金銀と両替する小両替と、銭の売買を主とする銭小売の 二種類があります。しかし、はっきりとした区別がないので、ともに銭屋と呼ばれ たりもしています。どちらも銭を両替して、手数料を稼ぐ商売です。銭両替は庶民 の生活に密接していましたので、繁華(はんか)な商店街や 寺社の門前町などで営業していました。
江戸時代にも、両替商とは別に、高い金利で金を貸す「高利貸し」という金融業 者がいました。大名や旗本相手の札差から、商人のご隠居の副業、長屋住まいの零 細な金貸しまで実に様々な高利貸しがいました。江戸庶民に最も近く、生活に根ざ していたのは、質屋よりも小規模な業者でした。高利貸しの中には悪質な者も多く 、体面を傷つけたり信用を落とすような真似をして、強引に取り立てる業者も多か ったようです。
他にも、現代でもお馴染みの質屋があります。家財道具などを担保に、金を貸す 業者です。珍しいものでは、幕府によって定められている商売の営業権である株や、 武家の身分たる御家人株など、いろいろな権利を担保とする質屋もありました。
行商人 |
商人の中でも、最も庶民に親しみ深いのが、行商人です。行商人とは、商品をか ついで売り歩く商人のことです。声に調子をつけて、歌うように声をかけながら町 を流し歩きます。お客はその声を聞いて、行商人を呼び止め、物を買いました。現 在でも場所によっては、物干し竿の販売や、豆腐屋、灯油の販売を車で巡回して販 売しているところがあります。ちょうどあのような感じでしょうか。しかし、江戸 では、まるで商店街が向こうからやってきたかのように、それこそあらゆる商品の 行商人が、たくさん町中で売り歩いていたのです。人々は家に居ながらにして、様 々なものを手に入れることができました。
行商人といえば真っ先に思い浮かぶのが、天秤棒をかついだ姿です。天秤棒の両 端に桶や板をぶらさげ、そこに商品を置いて売り歩きます。天秤棒をかついでいる 行商人を「棒手(ぼて)振り」と呼びます。 また、行商人には、箱に商品を入れ、それを背 負って売り歩く者もいました。
行商人が扱った商品は実に様々です。以下に、行商人がどんな商品を扱っていた か、その例を挙げてみましょう。
天秤棒の両側に篭を吊し、商品を乗せて売り歩きます。主に大根、ねぎ、かぶ、か ぼちゃなどを扱いました。
天秤棒の両側に盤台という平たい桶に、魚河岸から仕入れたばかりの新鮮な魚を入 れて売り歩きます。呼び止めると、その家の前か台所で魚をさばいてくれます。あ さりやしじみといった貝類は早朝に捕った新鮮な物をすぐに売り歩いていました。
野菜や魚介類の他にも、豆腐、納豆、どじょう、梅干し、唐辛子、浅草海苔、塩、 各種のあめ、ところてん、白酒、枝豆、などにも専門の行商人がいました。
すぐ食べられるように調理した食べ物を売る行商人です。そば、うなぎ、なべやき うどん、しるこ、ぞうに、おでん、燗酒、煮しめ、あんかけ豆腐などがありました。 また、鮨は、新春にこはだの鮨を売る行商人がいました。こはだの鮨を入れたせ いろを肩にかついで売り歩きました。また、稲荷鮨を売る行商人は多く見受けられ ました。
職商人 |
職商人というのは、職人の行商人とでもいうべきものです。江戸時代は生産力の 低い時代でしたから、直せる物は徹底的に直して使いました。ですから、壊れた物 を修理し、必要に応じて新品を販売する行商人がいました。それが職商人です。以 下にその例を挙げてみましょう。
破れた提灯の張り替えをし、屋号なども書き換えます。また、傘の修理も兼ねて いるのが普通でした。
新品の下駄を売りながら、鼻緒のすげ替えや下駄の葉の入れ替えもします。
鉄や銅製の鍋、釜の穴を塞いで止めるのが専門の職人です。小型のふいごをのせ た道具箱を天秤棒でかついで歩きました。
鍵を直して歩きます。新品の錠前を道具箱につるし、必要に応じて売っていまし た。
煙管は両端が金属製で、中間部分が竹でできています。この部分が羅宇です。こ の細い管の部分がヤニで詰まりやすいので、蒸気を通して詰まりを取ったり、新し い竹に交換したりしました。
曇った鏡を水銀でメッキし直す職人です。現代の鏡と違って、銅合金に水銀でメ ッキしたものを使っていたので、しばらくすると曇るってしまい、専門の磨き職人 が必要でした。
割れた陶磁器などの修理をする職人です。庶民の日用品の茶碗などを修理します。 白玉粉で接着し、小さなふいごで部分的に加熱する焼きつぎの方法で再生しまし た。
麦や茶などをひいて粉にする石臼の目立てを専門にする石工です。石臼は使って いるうちに磨耗して、作業効率が落ちますが、こうした職人が定期的に巡回して切 りなおしてくれました。
眼鏡はかなり高価なものでしたが、修理したり、度の合わなくなったレンズを交 換したりする職人が行商していました。もちろん新しく作って販売もしていました。
算盤の修理や調整を行う職人です。新品の算盤の販売もしていました。
リサイクル業 |
江戸時代の日本は鎖国状態ですから、自給自足の社会でした。生産能力が低いた め、利用できる廃物はとことんまで利用する体制が確立されていました。ですから、 いろいろな種類の廃品回収業者が、江戸時代にはたくさんいたわけです。どうし ても利用価値のなくなったごみは、深川の埋め立てに利用されました。
廃品回収の商人も行商人が多くいました。町を歩いて回って回収するのです。現 代のちり紙交換のようなものでしょうか。
一口に廃品回収といっても、その種類は実に多彩です。以下に、いくつか例を挙 げます。
現在と同様、いらなくなった紙を回収する商売です。いらなくなった帳簿や、ぼ ろぼろになった本なども回収します。このようなリサイクルが成り立つほど、紙の 供給があったのです。回収された古紙は、再び紙の原料になります。
江戸時代は、布はすべて手織でしたから、とても手間のかかった貴重品でした。 ですから普通は、破れたら継ぎを当て、ぼろぼろになって着れなくなったら、他の ものに利用していました。どうしても手放さねばならない古着は、古着屋が買い取 り、転売していました。古着を買って着ることは、当時では普通のことでした。
金属製品はとても貴重品でしたから、鍋なども徹底的に修理して使っていました が、修繕が利かないほどの鉄屑を回収する業者がいました。回収した鉄は、新たな 鉄製品の原料になります。
いわゆる糞尿の回収です。長屋の共同便所の糞尿は回収業者が、大家さんにお金 を払って買い取るものでした。これを農村などに肥料として転売するのです。化学 肥料などない時代のことですから、優秀な肥料として重宝されました。
溶けた蝋燭のしずくを回収する商売です。大店や寺院など蝋燭をたくさん使う得 意先に出入りして、蝋燭のしずくを買い取り、しかるべき蝋燭屋に転売します。蝋 燭は高額商品でしたから、集めた蝋を再生して蝋燭を作りなおす商売が成り立った のです。
番傘ように骨組みのある傘で壊れた物を回収します。そして、破れた紙をはがし て、使える骨組みにはまた新たに紙を貼りなおして再生します。はがした紙は水を はじく紙として、包み紙としての需要がありました。また、こわれた骨組みは、部 品ごとに分解して、使える部品を傘の職人に転売していました。
半端になった器や使い古した陶磁器などを転売します。半端な物でも傷が付いて いなければきれいなものなので、農村部などで需要がありました。
贈答品の残り物を買い取ります。役に立つ物ならともかく、儀礼的に贈られる品 々は捨ててしまうしかありません。それを買い取り、必要なところに転売するので す。
燃えかすの灰は、それこそ捨ててしまうしかないものですが、これを回収し、転 売する業者がいました。純粋な木灰はカリ肥料として使用されましたし、その他に も製紙、製糸、染色、洗濯などに使用するアルカリ物質として、莫大な需要があり ました。
飲食店 |
江戸でも食事を食べさせる店、いわゆる外食産業は盛んでした。前述した行商人 以外にも、屋台で食べさせたり、店を構える飲食業も多く見られました。
屋台の場合は、現在のように車の付いているものではなく、土台のない屋台でし た。屋台でも、そば、てんぷら、うなぎ、大福、甘酒など様々な食べ物を扱ってい ました。鮨は江戸中期まで稲荷鮨がほとんどでした。今は高級な料理の鮨も、もと は屋台から始まったのです。
店はそば屋、居酒屋、一膳飯屋が代表的です。店にはテーブルがなく、長椅子に 腰掛けたり、あがりかまちに上がって食べます。料理はお盆に乗せて運んできて、 そのままお客に出しました。そば屋は単に蕎麦を食べるところではなく、酒も飲め るし話も出来る、喫茶店に近い役割を果たしていたようです。酒屋は居酒屋を兼ね ていることが普通です。一膳飯屋はいわゆる定食屋のことで、主に人足や河岸の労 働者を相手にしていました。一膳飯屋の中にも、酒を出すところもありました。
茶屋は、現在の喫茶店に近い響きがありますが、一口に茶屋といっても、水茶屋 (休み茶屋)、出合茶屋、芝居茶屋、料理茶屋などがありました。
水茶屋は最も喫茶店に近い感覚でしょう。寺社の門前の盛り場などで営業し、団 子や茶を出します。有名な谷中笠森稲荷のお仙など、看板娘をおいた茶屋もありま した。
出合茶屋はいわゆるラブホテルのことです。上野不忍池付近に密集していて、「 池の茶屋」といえば出合茶屋をさすほどでした。料理茶屋にカムフラージュしてい た出合茶屋も多くあったようです。女性の不義について厳しい時代だったので、人 目につかない密会の場所として利用されました。
芝居茶屋は、劇場の付近にあって、客席の予約、見物人の案内、幕間の休息、茶 菓子や酒肴・食事の接待などをする茶屋です。幕の内弁当はここから生まれたもの です。芝居茶屋は座元の兼業や、劇場関係者の経営になるものが多かったようです。
料理茶屋は、座敷を持ち、いろいろな会合に利用される料理屋のことです。今で 言う料亭が近いでしょう。ですが、料理はあまり高級なものではなかったようです。 料理茶屋が誕生したのは江戸中期でした。
料理茶屋が発展して高級料亭というものが成立するのは、江戸後期、八代将軍吉 宗の死去以降です。一流の料理だけでなく、町外れの風雅な雰囲気の場所や、川沿 いの眺めのいいところを売り物にしていました。もちろん高いので、庶民にはとて も足を運べるところではありません。
その他の商売 |
いままでにあげた商売の他にも、江戸時代を特徴づけるものがあります。そのい くつかをあげておきます。
現代の銭湯のことです。江戸で風呂といえば蒸し風呂、現代でいうサウナのこと を指したので、浴槽に湯を張ってつかる風呂屋のことを湯屋と呼んだのです。
江戸の庶民にとって入浴とは、銭湯に行くことでした。町人の家や商店が浴室を 持つことはありませんでした。旅篭屋でさえ、客を湯屋に行かせたのです。その 理由は、薪が高価なこと、大量の水を必要とすること、火事の発生を恐れるためな どがあげられます。家に浴室があるのは武家屋敷くらいのものでした。
庶民がみんな利用しますから、湯屋は町内に少なくとも一軒はありました。湯屋 の屋号は「白銀町の湯」「多町の湯」というように、町名を上に冠して呼ばれたの も、人々の生活に密着した商売であったことの現れです。
寛政の改革までは混浴でしたが、以降は男女別々になりました。しかし、男湯と 女湯の仕切りは申し訳程度のものだったようです。 流し場と浴槽の間は石榴口(ざくろぐち)と呼 ばれる仕切りで区切られていました。これは、足下に出入口の隙間があいていて、 客は身体をかがめて浴槽から出入りするようになっていました。湯を冷めにくくす る工夫だったようです。
湯屋の二階は、もともとは武士が刀を置いておく場所でした。しかし、人々がみ な湯屋へ風呂に入りにいくとなると、町内の人とはいつも湯屋で顔を合わせること になるので、湯屋の二階は自然と客の休憩所となり、町内の人々の社交場のような 存在になりました。
髪結とは、現代の床屋さんや美容室のことです。はじめ髪結は吉原を除いて男性 が相手の商売でしたが、明和年間くらいに女性を相手にする髪結も増えました。男 性相手の髪結は「髪結床(かみゆいどこ)」、 女性相手のものを「女髪結」と呼びます。
髪結には、自宅に店を構えて営業する「内床」、路傍や橋のそばの小屋で営業す る「外床」があり、二つあわせて「床髪結」とも呼ばれました。また、 「場所廻り(廻り髪結)」という得意先を廻る、職商人のような髪結もいました。
髪結床もまた、同じ町内の男性がこぞって利用するので、一種社交場のような場 所になっていました。
本所や深川、佃の住民は上水道の恩恵が得られませんでした。そこで飲み水を売 る水売りが現れました。呉服橋そばの瀧ノ口では、神田・玉川の両上水の余り水を 外堀に落としているので、ここの水を汲んで、船で運びました。値段は一荷四文だ ったそうです。
現代でいえば職業安定所のようなものでしょうか。奉公口の斡旋・仲介を請け負 う業者です。商家などでは、下男や下女などの短期の奉公人は 主に口入屋(くちえれや)を通して 雇いました。また、江戸は武士の都といわれるほど多くの武士が住んでいましたが 、大名・旗本・御家人に、徒士・足軽・中間など「軽き武家奉公人」を斡旋する口 入屋も多くいました。武芸の腕におぼえがある浪人を用心棒として、商家などに紹 介することもありました。
ここでいう駕篭は、町駕篭・辻駕篭と呼ばれる、庶民に利用される駕篭のことで す。駕篭は、現代でいうタクシーのようなものです。一般的な駕篭は四手駕篭と呼 ばれる、竹製の簡素な駕篭を二人の駕篭かき(六尺とも呼ばれる)が担ぎます。駕 篭かきは誰にでもできる力仕事なので、最下層の町人の職業の一つでした。
辻駕篭は普通、一里を一時間、早いのでは40分ほどで走りました。駕篭の料金 は、天保期で、日本橋から吉原の大門まで金二朱、銭なら八百文ほど。速度を上げ れば三朱から一分にもなったといいますから、一般庶民はよほどのことがない限り 、駕篭を利用することはなかったようです。
駕篭屋として有名なのは、大伝馬町の赤岩、芝口の初音屋、浅草の伊勢屋・江戸 勘、吉原の平松などが有名です。
飛脚とは、文使とか早く走る者、といった意味です。その役割は現代の郵便局に 相当します。一口に飛脚といっても、幕府の公用飛脚(継飛脚・三度飛脚)や、大 名が地元との連絡のために運用した大名飛脚などもありますが、ここでは町人が商 売として運営する飛脚について説明します。
定飛脚(じょうびきゃく)は、 定飛脚問屋運営する民間郵便局です。定飛脚の発展は、大坂・京都の 豪商が江戸店を出店したことにあります。はじめはこうした大店が自分達で飛脚を 設けていましたが、後にこうした大店と提携して商いをする定飛脚問屋が現れまし た。そして東海道を中心とした定飛脚が発展したのです。
飛脚は基本的には、月三回というように定期的に便を出します。江戸〜大坂間を 約十日で走りました。しかし、手紙が少ないまま定期便を走らせるのも効率が悪い ので、「幸便(こうびん)」といって客から手紙を 集めてまわって走る飛脚がありました。 また、「仕立便」という単独で出す急便や、江戸〜大坂間を六日で走る「速達便」もあ りました。
定飛脚問屋では、一七屋、嶋屋、大坂屋、和泉屋、京屋などが有名です。
瓦版は、現代でいう新聞に相当するマスメディアです。内容はニュースばかりで なく、パロディーや読物、評判物、風刺物、見立番付など多種多様な娯楽読物でし た。内容的にはゴシップ的な様子が強く、現代のスポーツ新聞や女性週刊誌、写真 週刊誌の様な存在だったようです。瓦版で多く取り上げられた題材は、火事・心中 ・敵討ちの三つでした。
瓦版はほとんどが一枚の刷り物です。製作は、取材記者、木版彫り師、紙を当て て刷る刷師、売手と分業の体制でした。