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第四章 娯楽案内


江戸時代には、カラオケもゲームセンターも映画館もゴルフ場もコミケもドライ ブもありませんでした。では、江戸の人々は全く遊べなかったのかというと、そん なことはありません。江戸の町に住んでいた人々は、何を楽しみにしていたのでし ょうか?

本章では、江戸の娯楽について扱います。

芝居

江戸で娯楽の王様といえば芝居です。芝居町は芝居小屋を中心に、芝居茶屋が軒 を連ねる歓楽街です。ここでは日に一千両が動くと言われるほどのにぎわいでした。

江戸で芝居といえば江戸歌舞伎のことです。歌舞伎は歌あり踊りありの、音楽が ふんだんに使われた娯楽劇です。歌舞伎のはじまりは、 「出雲の阿国(おくに)」という踊り女が京で「ややこ踊り」を踊ったことから、といわれています。これが歌舞伎踊りとして全国的に広 まり、元禄年間に歌舞伎として成立しました。以来、歌舞伎は人気第一の芸能であ ると同時に、当時のファッションの流行の発信地ともなりました。

公許の劇場は、初期は大芝居四軒(中村座・市村座・山村座・森田座)でした。 しかし、正徳四年(1714年)に七代将軍家継の生母月光院の奥女中・絵島が代 参として芝の増上寺に参詣した帰りに、木挽町の山村座に立ち寄り、人気役者・生 島新五郎と遊興したことが発覚。この「絵島生島事件」で山村座は廃絶となり、以 来、江戸の大芝居は堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座の三つが「江 戸三座」と呼ばれ、天保の末まで続きました。その後、天保の改革で、当時はへん ぴな地域であった浅草寺の北側に芝居町は移され、猿若町と名付けられましたが、 30年ほど興行が続いた後衰退しました。

興行は一年単位で行われ、金主(きんしゅ)が出資して、 役者を揃えて一座を組みます。江戸 三座というのは座元を中心とする技術者集団で、主要な役者は専属ではなく、一年 契約で雇うものだったのです。また、芝居の台本を書く座付作者も一年契約でした 。現代のブロードウェイの興行システムに似ています。

興行は一日一回、昼間だけ行われます。最初は下位の役者による出し物があって、 それから上位役者の芝居が行われる二部構成でした。一番目の出し物は江戸時代 以前の公卿または武士物語である時代物。二番目は世話物と呼ばれる町人の世界の 物語で、当時の現代劇でした。

江戸歌舞伎の特色は「荒事」という、超人的な武勇の荒々しさを表現するもの。 これに対して上方歌舞伎の特色は「和事」といって、男女間の色事を写実的に表す ものでした。歌舞伎の東西交流で江戸歌舞伎にも和事が取り入れられ、当時の現代 劇の世話物が現実味を帯びるようになりました。

荒事は江戸歌舞伎の宗家・市川家のお家芸ですが、 七代市川団十郎が天保三年(1832年)に息子に団十郎を襲名させるに際して、 市川家の当たり芸である演目 を十八種選び、これを「歌舞伎十八番」として公表しました。その内容は、助六、 暫(しばらく)、矢の根、勧進帳、毛抜、鳴神(なるかみ)、 不動、景清(かげきよ)、鎌髭(かまひげ)、 蛇柳(じゃやなぎ)、不破、嬲(うわなり)、解脱、 七つ面、象引(そうひき)、関羽、外郎売(ういろううり)、 押戻となっています。

芝居見物

芝居見物は、江戸の人々にとって最大の娯楽でした。人々は芝居見物の日が近づ くと、番付(プログラム)に見入り、新しい服を新調したりして、その日が来るの を待ちこがれていたのです。

興行は早朝から日没まで続くので、観客は茶屋や芝居小屋の中で食事をしたり、 菓子や果物を食べたり、お茶を飲んだりして芝居を見物していました。芝居見物は 「か・べ・す」つまり、菓子・弁当・鮨を楽しむところでもあったのです。

芝居の客席は何種類にも分かれています。一番上等な席は、芝居小屋の左右にし つらえられた「桟敷(さじき)」という席です。 芝居小屋のまわりには大小の芝居茶屋があり、 桟敷の席はそこで事前の予約が必要でした。中等の席は舞台正面の席で「土間」 または「切り落とし」と呼ばれます。そして最下等の席が、舞台正面の二階席が「 向桟敷(むこうさじき)」で、通称「大向こう」と呼ばれました。ここが一番安い 席だったのは、役者の声がよく聞こえないためで、向桟敷の奥の席は「つんぼ座敷 」などと呼ばれていました。また、舞台の上に安い大衆席ができることもあって、 「羅漢台」と呼ばれ、さらにその上に設置されたの席は「吉野」と呼ばれました。 大衆席はとても狭く、肩をぶつけ合うようにして見物しました。

歌舞伎役者は現代のトップタレントに相当します。江戸時代にも、このようなト ップタレントの熱狂的なファンは老若男女問わずにいて、「贔屓(ひいき)」と いいました。 女性のファンなら、櫛や簪(かんざし)などの装身具や鏡などの化粧道具、 ちょっとした小間物 などに贔屓の役者の紋をつけたもの、つまり贔屓役者グッズを使用したり、贔屓の 役者の錦絵を集めたりしました。また、上等の客の中には「連中」というファンク ラブを組織して、そろって見物にいく「総見」をしたり、目当ての役者にプレゼン トを贈ったりしました。役者贔屓が加熱して、贔屓同士が対立して、喧嘩沙汰にな ることもあったようです。

芝居茶屋は、芝居小屋の両側に立ち並ぶ大小の茶屋で、それぞれの芝居小屋に所 属しており、芝居見物のための総合サービスを請け負っていました。 幕間(まくあい)になると、 客は茶屋に戻ってきて、足を伸ばしてくつろいだり、お茶を飲んだりしました。 金持ちの娘などは、幕間のたびに茶屋に戻って服を替えたりしたそうです。場内に は弁当、菓子などを客に用意し、運びいれました。芝居がはねて夜になると、二階 座敷に贔屓の役者や芸者を呼んで、酒宴が催されました。また、芝居茶屋のサービ スは、一般的な茶屋の業務の他にも、新狂言が決まれば番付を用意し、役者評判記 や役者絵の以来の仲介などもしました。先にも書きましたが、最上等席である「桟 敷」の予約も芝居茶屋の重要な仕事でした。

なお、江戸には江戸三座の大芝居の他に、市ヶ谷八幡社・湯島天神社・芝神明社 などの寺社地で庶民向けの安い小芝居が興行していました。ただし、これは表向き は許可されたものではありませんでした。

錦絵

錦絵とは、中国の錦のように美麗な絵、という意味です。江戸の土産といえば錦 絵か浅草海苔と相場が決まっていました。その理由は、どちらもかさばらないので 持ち運びに便利で、さらに江戸の匂いを嗅ぐことができ、価格も安かったためです。

錦絵は木版画で、多色摺りの美しいものです。はじめは墨一色の墨摺絵から、そ こに色を塗った丹絵(たんえ)・紅絵(べにえ)・漆絵(うるしえ)、 墨・紅・緑などの数色を摺った紅摺絵(べにずりえ)、そして 多色の色版を重ね摺りする錦絵、と発展してきました。

錦絵は大衆向けの商品で、画題も通俗的な内容がほとんどでした。最もポピュラ ーなのは歌舞伎の役者絵、花魁(おいらん)や遊女がモデルの美人画、 力士を描いた錦絵です。 これは現代でいうブロマイドのようなものでした。特に役者絵は、錦絵の中でも最 も多く取り上げられた題材で、芝居の一場面を描いた芝居絵などもありました。

また、壁の装飾などに利用された花鳥画や風景画があります。風景画の中でも有 名な「赤富士」は、当時はやった富士信仰のための作品と考えられています。

広重などが描いたことで有名な名所絵や江戸の町並みを詳細に書き込んだ地図・ 切絵図は、やはり江戸土産として好評を得ていました。

性風俗を描写した錦絵は、枕絵とか春画と呼ばれるものですが、幕府が厳しく取 り締まっていましたから、地下出版の様なものでした。しかし、有名な大手の版元 が、一流の絵師が偽名で描いた枕絵を、常連客などにひそかに販売していました。

大相撲

江戸時代の相撲は寺社の境内で開催されました。これは寺社の修復の費用を賄う 名目で興行されたためです。そのため、相撲興行は寺社奉行の管轄であり、勧進相 撲と呼ばれました。

江戸での興行は春と冬。興行は当初は深川八幡をはじめ、市内各所の寺社を転々 としましたが、寛政年間からは両国の回向院に落ちつきました。

相撲は武芸でもあったので、強豪力士はほとんどが大名のおかかえ力士で、勝敗 にはその藩の誇りがかかっていました。武芸であり、勧進相撲でもあるため、女性 の見物は許されませんでした。江戸中期以降は町人の間にも相撲熱が広がり、力士 も歌舞伎役者に劣らぬ人気者となり、力士をモデルにした錦絵も多く描かれました。

見世物

見世物は芝居よりも手軽な娯楽として江戸庶民に親しまれていました。両国や浅 草、上野といった盛り場には各種の見世物小屋があって、呼び込みの声が賑やかに 聞こえていました。

一口に見世物と言っても、その内容は実に様々で、珍しい物や面白い物ならなん でも見世物として小屋にかかりました。

ポピュラーなものとして、まず、軽業や曲芸などがあげられます。軽業は綱渡り をはじめ、青竹登り・乱杭渡り・篭抜け・曲馬乗り・ブランコなど、現代のサーカ スによく似ています。曲芸は、物を宙に投げて曲取りしたり、鮮やかに捌いたりと、 手足を使っての技を見せました。

芸に限らず、珍しい動物や植物も見世物として人気がありました。ラクダ・象・ 虎などの珍獣が見世物にかかりました。花鳥茶屋という、孔雀・鶴 ・錦鶏(きんけい)・鹿など を見せる一種の動物園のようなものがあり、雨天でも見物できたので好評でした。 また、猿や犬・猫・鼠に芸を仕込んで芝居をさせる見世物もありました。

江戸後期から幕末にかけては、細工物がはやりました。竹や篭で歴史上の人物や 動物を編み上げる細工物や、様々な種類の貝殻を使い分けて人物像や物語の一場面 を描く貝細工、現代の菊人形の原点である菊細工などがあります。また、からくり 人形芝居や、さながら生きているかのようにリアルな等身大の人形・生人形なども 人気を博しました。

読み物

江戸の人々のほとんどは寺子屋教育によって、字を読むことができましたから、 知識人だけでなく、一般庶民も書物に親しむことができました。

書物は書物問屋で買うことができましたが、当時の書物は非常に高価なものでし たから、庶民はもちろん、大名・旗本であっても気軽に買えるものではありません でした。

そこで貸本屋という商売がありました。貸本屋はたくさんの本を大きな風呂敷包 みに包んで背負い、得意先をまわる行商人です。貸本屋のおかげで、庶民も安い値 段で読書を楽しむことができました。

新刊は一年に一回、正月に出版されました。続きものなどは、一番新しい本を読 んでしまうと、続きは来年の正月まで待たなくてはなりませんでした。年間を通し て出版されるシリーズもありましたが、それでも半年は待たなくてはなりませんで した。次の新刊までの期間は、作者が物語を書き、画者が絵をつけ、版元が木版を 起こして印刷する、仕込みの期間でした。

読み物にはいくつかの形態がありました。以下にその例を挙げて説明しましょう。


浮世草子

江戸時代初期は、上方を中心に出版が盛んでした。そこで人気を博していたのが 浮世草子です。元禄時代を頂点として、宝暦・明和頃まで流行した小説で、世相・ 風俗など町人の生活や精神を描く文学でした。井原西鶴の「好色 一代男」「世間胸算用」などが有名です。


草双紙

江戸で庶民対象の平易な読み物が現れたのは元禄期でした。庶民の読み物として 代表的なものが草双紙(くさぞうし)です。 草双紙は赤本・黒本・青本から黄表紙・合巻と発展し てきました。

赤本・黒本・青本は絵を主体として、そのまわりの余白に文章を書き、五丁を一 冊としたものです。江戸時代の書物は袋とじのように綴じたもので、その紙一枚分 つまり2ページ分を丁と言いました。つまり、一冊はわずか10ページ。物語は二、 三冊で完結するのが普通でしたから、現代からすると短編以下の短いものでした。

黄表紙はより機知と滑稽に富んでおり、風刺的な内容が特徴でした。しかし、寛 政の改革で、黄表紙の風刺的内容は取り締まりの対象となり、その後は作風が変わ って長文の作品が多くなってきました。そこから生まれたのが合巻です。合巻は五 丁一冊の本を何冊かまとめて綴じたもの。その後はこの形態が主流になり、明治時 代まで刊行されました。

草双紙の代表作は、文政・天保期に書かれた柳亭種彦作・歌川国貞画の 「偐(にせ)(むらさき)田舎(いなか)源氏(げんじ)」 です。これは源氏物語を当世風に仕立てた物語で、特に女性読者に一番の 評判を得たといわれています。


読本

草双紙は一般大衆向けの読み物でしたが、教養人向けの娯楽小説として読本があ りました。 読本(よみほん)は本の作りも値段も草双紙よりもランクの高い高級品でした。 文章は和漢混淆(こんこう)文で、 ところどころに挿し絵が入っています。物語の長さも、大河物語 と呼べるほどの長編もありました。読本の代表作は、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝 」や、上田秋成の「雨月物語」などです。


春本

春本(しゅんぽん)とはいわゆる好色本、 男性向け創作のことです。春本という呼び名は明治期 以降の呼び名で、江戸時代には枕草紙、笑い本、艶本(えほん)、 わ印などと呼ばれていました。

春本の草分けとも言えるのが井原西鶴の「好色物」で、この成功を受けて、天保 期から元禄期にかけて好色本は流行となりました。当時は内容の如何に関わらず、 一般の書物と区別なく店頭に並べて販売され、作者、画者、版元などの名前も明記 されていました。

享保の改革で、春本・枕絵のたぐいは厳しく取り締まられ、以来、名前を堂々と 記述することはできなくなり、非公然の地下出版となります。しかし、春本は一流 の戯作者(げさくしゃ)や 文人たちによって、多種多様な作品が生み出され、幕末に至ります。

春本で特筆すべきは、その極彩色の多色摺り印刷です。当時の木版による多色摺 り印刷技術は、世界最高のレベルでした。しかし、江戸時代は何度も倹約令が出さ れましたから、多色摺りは無用の贅沢として禁止されていました。ですから、どん なに優秀な印刷技術を持っていても、発表する場がなかったのです。そこで、取り 締まりが厳しく、非公然に発刊されている春本に、その技術がそそぎ込まれたとい うわけです。

取り締まりが厳しい時代は、春本を出していることは秘密でしたから、書物問屋 や貸本屋では、上得意の客に訊ねられたときにだけこっそりと出していました。春 本は、多色摺りの豪華本で秘密の品物でしたから、とても高価なものでした。です から貸本屋ではとても人気があったそうです。

富くじ

富くじとは、現代でいうところの宝くじのことです。人々が一攫千金を夢見るの は、今も昔もかわりません。江戸時代は賭博が禁止されていました。しかし、時代 が下るにつれて幕府の財政が逼迫(ひっぱく)し、 寺社への必要な援助ができなくなったため、 享保末期に寺社での富札の販売を許可したのが富くじのはじまりです。

富くじで有名なのは、谷中感応寺・湯島天神・目黒不動の三カ所で、俗に「江戸 の三富」と称されました。富くじの人気は高く、最盛期にはこの三富以外に22カ 所で富くじが行われたといいます。

富くじは、まず、客が富札と呼ばれる番号の付いた札を買います。そして、売り 出されたのと同じ番号の書かれている木札を箱の中に入れ、その箱の上部にある穴 から大錐(おおぎり)で突いて当たり札を決めていきます。 この大錐で札を突くことを富突といい、 百回突きます。そして最後の百回目に突いた番号の札が大当たりとなるわけで す。なお、九十九番目までの札にも賞金が出ました。

富札の値段は、江戸の三富では一枚が金一分で、発売枚数は千枚でした。大当た りの賞金額は百両。当たれば大きいことは確かですが、富札の値段は庶民がおいそ れと買うことのできる金額ではありません。三、四人で金を出しあって、一枚の富 札を買う人々も多かったようです。

富くじは天保の改革で禁止されますが、その後も密かに行う寺もありました。


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