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第一章 江戸概要


近くて遠い過去の街・江戸。名前が東京とかわり、 震災や戦争を経てもなお、その名残をとどめるほどには現代に近い街です。 しかし、江戸の実態を知る人は、とても少ないと言っていいでしょう。 多くの時代劇が舞台にし、多くの現代人に親しまれていながら、 実態をあまり知られていない「江戸」という都市は いったいどんなところだったのでしょうか。

本章では、江戸の都市としての概要を中心に述べていきます。

江戸のはじまり

江戸が初めて歴史に登場するのは、 鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡(あづまかがみ)」で、 治承四年(1180年)に源頼朝が「坂東八か国の大福長者」とよばれた平家側の 有力武将・江戸重長の領地に上陸し、鎌倉を目指した、というくだりです。 当時から、東京湾は水運の中心地として栄えていたことが推察されます。

この地に初めて城を築いたのは太田道潅(どうかん)でした。 長禄元年(1457年)に築城した当時は、まだ関東の片田舎に過ぎませんでした。 天正十八年(1590年)に徳川家康が豊臣秀吉の指示でここを本拠地とした時には、 ほとんど荒廃していました。

そして、慶長五年(1600年)、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利を収め、 同八年(1603年)に征夷大将軍となり、徳川幕府が江戸に開かれます。 その後、江戸城の改修と城下町が整備され、江戸は一躍日本の首都となり、 繁栄を始めました。

百万都市として今に知られる江戸ですが、 本格的な都市計画のもとに形作られるのは、 明暦三年(1657年)の「明暦の大火」より後です。 明暦の大火は、江戸のほとんどを焼き、江戸城の天守閣も落ち、 死者は10万人にも及んだという大惨事です。 しかし、このときにはまだ残っていたという、 昔の北条氏支配時の都市区分などは一新され、 現在最も知られている江戸の姿が形成されることになったのです。

江戸の広さ

生粋の江戸っ子に言わせれば、本当に江戸と呼べるのは 神田、京橋、日本橋だけだといいます。 この三つの地域は、江戸開府以来の古い歴史があり、 また江戸でも中心部に位置する町人の町です。

さて、江戸の広さは、現在の東京に比べるとかなり狭い地域になります。 東はおよそ亀戸あたりまで、西は四谷あたりまでで、 新宿はすでに郊外といっていいほどの景観でした。

北は千住、板橋くらいまで、南は品川までくらいでした。 しかも、この南北の町はすでに街道の第一宿目にあたるので、 江戸はそれよりもさらに内側、といっていいでしょう。 つまり、江戸の大部分はちょうど現在の山手線の内側に入るくらいの 広さだったようです。

俗に大江戸八百八町といわれますが、これは町人の町。 これがどのくらいの広さだったかというと、 江戸の60%が武家地、20%が寺社地、残り20%が町地でしたから、 八百八町といえど、山手線の内側の20%程度の面積という、とても狭い地域でした。

江戸の人口

俗に、江戸は百万都市といわれます。実は武士の正確な人口統計がないので、 正確な人口は分かりません。 しかし、町人は人別帳の記載などにより、 だいたい$50\sim 55$万人程度であることが分かっています。 これには寺社関連の人々は含まれていませんから、 これを加えて、およそ60万人。

武士は、参勤交代の制度により、 全国の大名の半分が毎年入れ替わって江戸にいることになります。 その家族や家来、使用人などの人口、さらに江戸在住の旗本、 御家人、浪人を加えて、50万人以上はいたといわれています。

この町人と武士の人口を加えただけで、充分百万都市になりますが、 その他にも人別帳に記載されない浮浪者や旅の者、出稼人、 近郊の住人などが入り込んでいますから、 100万人をはるかに超えた大都市だったのです。

江戸が百万都市になったのは、元禄時代以降、 明暦三年(1657年)の「明暦の大火(振袖火事)」という 大火事以降のことと考えられています。

江戸の身分制度

江戸時代の身分制度として有名な「士農工商」。 学校の歴史の授業で教わった人も多いことでしょう。

士農工商とは、武士、農民、職人、商人の順番の身分制度のことです。

しかし、実際には農民、職人、商人の間には 身分差はほとんどありませんでした。 たとえば、大商人と貧しい小作人では、やはり大商人がはばをきかせるでしょうし、 豪農と取引をしている小商人は、商人が豪農に頭を下げるものです。

ですから、はっきりとした身分差は、武士と、 農工商つまり庶民の間にだけしかありませんでした。

庶民は武士を敬っていました。それは、武士が職業軍人だからではなく、 高い教養と厳格なモラルを守った生活をしている知識階級だったからです。

ですから、身分差を問題にするときは、士農工商を気にする必要はありません。 武士か庶民かを気にする程度でかまわないのです。

江戸の教育

江戸の教育で有名といえば、ご存知の寺子屋。 実は「寺子屋」という呼び名は関西系のもので、 江戸では学校に屋号を付けて呼ぶのを嫌って、 「手習師匠」「手習塾」と呼んでいました。 この時代、義務教育というものはありませんでしたが教育は盛んで、 十九世紀中期の嘉永年間の頃で、 町人階級の子供の手習塾への就学率は江戸府内で80%にも達していました。 同じ時代の世界の大都市と比較しても、最高のレベルでした。

こうした手習塾は、十九世紀もはじめの頃には町内に二、三人の手習師匠がいて、 江戸府内で1500もの塾があったといわれています。 手習塾はいわゆる初等教育で、読み書き算盤(そろばん)を教えていました。 普通の職人や商人であれば、それくらいの教養で十分で、 あとは日々の仕事の中で覚えていったのです。 授業はマンツーマンで行われました。 仕事の手伝いで塾に来なかったりすることは普通でしたし、 商人の子供と職人の子では教える内容も違っていましたから、 マンツーマンになるのは至極当然のことです。 手習塾は子供に人気があり、ことのほか楽しいところだったようです。

さらに勉強したい、と考える人のために、 幕府は昌平坂学問所(湯島聖堂)で庶民も自由に聴講できる部門を設置しています。 また、いろいろな学問の私塾が数多くあり、門戸を開いていました。 ですが、そのように勉強好きな庶民は稀で、 よほどの変わり者と思われることでしょう。

女性の教育は男性のものより高度で、 女の子専門の手習塾も多く見受けられました。 男性の教育は手習いも適当なところで切り上げ、 仕事を身につける事が優先されましたが、 女子の教育はより高い教養や礼儀作法、芸事を身につけることが必要とされました。 女子教育の総仕上げは、しつけの厳しい上級武士の屋敷に奉公に出て、 礼儀と道徳を身につけることでした。これは名門女子大に進学するようなもので、 奉公人として給料をもらうのではなく、月謝を払って教えてもらう立場だったのです。

江戸の女性

江戸は男女構成比が男性の方が圧倒的に多かったといわれています。 主な原因は、大名の参勤交代や、関西の豪商が持つ江戸店の出店です。 両方の職場とも男性中心でしたから、 男性の比率が極端に高いまま江戸に入ってきたのです。 男女構成比が落ちついたといわれる江戸中期でさえ、 女性100人に対して男性が$160\sim 170$人の割合だったといいますから、 相当なものです。 そのため、江戸時代は現代以上に結婚難だったようです。 武家や商人の男性社会が、 江戸の遊郭や岡場所の発展の源となったという見方もあります。

結果として、男性は数少ない女性を大切に扱うようになり、 女性の方が立場が上なこともしばしばありました。 また、女性の教育は、 男性よりも高い教養や芸事を身につけることができる内容でした。 女房の方が賢くて、旦那は頭が上がらないという場面を落語などでよく見ますが、 町人階級の家庭では結構普通のことだったようです。

町奉行所でも同じ犯罪に対しては、 女性に対して罪一等だけ軽い判決を下していました。 女性はよほどのことがないかぎり、死刑にならなかったのです。 また、子供を養子に出すときにも、 男の子よりも女の子の方が引取先が見つけやすかったと いわれています。

江戸の明かり

江戸の町には、街灯のような明かりはありませんでした。 ですから、夜になるととても暗かったのです。 照らしている光と言えば、それこそ月明かりだけです。 それだけに、夜の外出は目が利かないだけでなく、 とても危険なことと考えられていました。 人々は、用事はできる限り日が出ているうちに済ませるようにしていました。

それでも夜外に出なければならないときには、提灯(ちょうちん)を持って 歩きました。 夜までやっている料理屋や旅館などでは、客が帰るときには提灯を貸していました。 提灯は足下を照らす程度の明かりですが、遠くから見るととても目立ちます。

江戸の不夜城・吉原は、一晩中提灯などの明かりが絶えることがなく、 遠方から見ても吉原の方角の空は明るかったといいます。 それほどに江戸の夜は暗かったのです。

人々が使う明かりは、行灯(あんどん)がポピュラーです。 その中で燃やしているのは菜種油でした。 もう少し安い燃料としては魚油(ぎょゆ)がありましたが、 燃やすとひどい匂いがします。 このような明かりは、現代の蛍光灯の数百分の一程度という明るさです。 もう少し明るいものに蝋燭(ろうそく)がありますが、 これは金持ちでもなければ使えない贅沢品でした。

江戸の上水道

「水道の水で産湯を」というのは、江戸っ子好みの啖呵(たんか)の一節。 そんな言葉で江戸っ子が誇るほど、江戸には巨大な水道網がありました。

江戸では二本の上水道を中心にして、各地区に生活用水を配水していました。

一つは神田上水で、江戸開府と同時期に作られました。 当時の江戸は水が悪く、徳川家康が江戸城の水を確保するために、 神田川の水を小石川あたりで引き入れ、慶長年間に完成させました。

もう一つは玉川上水。 こちらは多摩川の水を羽村から引き入れ、四谷、麹町、赤坂方面に配水しました。 玉川上水ができる前、江戸の西南地区の住人は赤坂溜池の水を 飲むしかありませんでした。 その池の水が少なくなった承応二年(1653年)に四谷大木戸、 翌三年に虎ノ門までの上水が完成しました。

この二つの上水から、さらに町中まで細かく配水するために、 地下に木管という木製の水道管を設置しました。 もちろんポンプなどありませんから、現在の加圧式ではなくて、 自然流下式という、高いところから低いところへ水を流す方法で水道を作りました。 その水道の流れの末端に、 水道桝(ます)とか桝と呼ばれる水をためておく井戸を設置しました。 人々はそこに水を汲みにいったのです。

この配水管の総延長は150キロにも達しており、 当時としては給水人口、給水面積ともに世界最大の給水システムでした。

江戸の下水道

江戸ではかなり早い時期に排水路が作られ、 慶安年間(1648年頃)には主な法令が作られたといわれています。

江戸の下水道は大下水・小下水(この二つを合わせて 「表裏の下水」と呼ぶこともある)が設置され、 最終的に川や堀に放流されるようになっていました。 また、通りに面した家々は家屋の前三尺のところに 「雨落(あめおち)の下水」という溝を掘ることになっていました。 また、裏店にも一屋敷を単位として「裏店のどぶ」という排水路が作られていました。

幕府は下水道の管理に非常に熱心で、当初は下水奉行を設置するほどでした。 また、法令は数多く出されており、 下水の上に家・蔵・小屋・雪隠(せっちん)を作ることを禁止したり、 下水を築出してせばめることを禁止したり、 定期的にごみをさらうように命じたりしていました。

また、下水のほとんどに(雨落の下水や裏店のどぶも含む)人が落ちないように 蓋をすることが義務づけられていました。

江戸の下水は生活排水路でしたが、便所の排泄物は肥料としての買い取り業者が 活躍していましたので、ほとんど流すことはなかったようです。

江戸のごみ処理

江戸時代の人々は、物を徹底的にリサイクルして使っていました。 生産はすべて手工業に頼っていたので、生産量は低く、 どんなものでも貴重品でした。 そのため、リサイクル業者のような仲買人や修理を請け負う職商人などがいて、 再利用できる仕組みができあがっていました。

それでも利用できないほどに壊れた物や利用価値のないごみは、 深川の埋め立て地に持っていき、埋め立てて処分されました。

江戸の交通

江戸時代の人々がもっとも利用したのは徒歩でした。 店に買い物に行くのも、近所に使いに行くのも、どこかへ旅するのも、 基本的には歩いていったのです。 普通に生活している分には、それで充分でした。 庶民は一生のほとんどを自宅の近所で過ごしますし、 買い物も近所の店や、やってくる行商人で済ませられるので、 遠くに行く用事もほとんどなかったのです。 ただ、江戸は道の状態がきわめて悪く、一度雨が降ると、 高下駄のような履き物を履かないと、 足から服まで泥だらけになってしまう有り様でした。

駕篭(かご)は現代のタクシーのような存在です。駕篭には二種類あり、 一つは辻駕篭(町駕篭)。 これは商家の軒下や木戸近くにたむろして、客を拾う流しの稼業。 もう一つは宿駕篭で、駕篭屋の店を構えて、駕篭かきを雇って営業します。 つまり、辻駕篭は個人タクシー、 宿駕篭はタクシー会社経営といったところでしょうか。 格としては宿駕篭の方が上とされています。 江戸初期は駕篭のすべてが幕府の認可を受けなくてはならない登録制でしたが、 後に有名無実となり、多くの駕篭屋が現れました。

駕篭は普通、四手(よつで)駕篭とよばれる、 竹の柱と割竹を編んだ簡素な駕篭を使います。 時代劇で大名が使っているような四方板張りで屋根は黒塗り、 三方にある窓に簾(すだれ)がかかっているようなものを宝泉寺駕篭といい、 四手駕篭よりも高級な乗り物として、料金も高くなっていました。

駕篭は庶民が気軽に利用できるような乗り物ではありませんでした。 天保期で、日本橋から吉原の大門まで金二朱、 銭なら八百文ほどであったといいますから、とても高い乗り物だったのです。

江戸では町人が馬に乗ることが禁じられています。 そのため馬車や牛車もほとんど見られません。 また、荷物の運搬には牛車や大八車、天秤棒などが一般的ですが、 幕府が軍事上の理由から車の利用を制限したため、牛車も大八車も登録制でした。

水運の都

江戸の地名は「江(え)」の「門(と)」に由来するといわれています。 江戸は古くから諸国の船が入港して、物資を陸揚げし、 ここから陸路をたどる中継地点だったのです。

江戸を縦に流れる大川(隅田川)の周辺は江戸の表玄関として栄えました。 船着き場と蔵が隣接する港を「河岸(かし)」といいます。 江戸には70ほどの河岸があり、大川に沿ってずらりと蔵が並んでいました。 つまり陸揚げの場であると同時に倉庫街だったのです。 河岸の名前には、魚河岸や塩河岸、竹河岸、多葉粉(たばこ)河岸といった 陸揚げされる商品名をとったものや、 行徳河岸、木更津河岸のような行き先の地名を取ったものが多くありました。

諸国から商品を運んできた船は、江戸湾から大川へ入ります。 しかし江戸湊(みなと)は浅瀬が多いため、小型船は河岸まで直行しますが、 大型船の場合は、問屋がしつらえた小舟に商品を積み替えて河岸まで運びます。

河岸のすぐそばは問屋街になっており、 陸揚げされた商品はここから諸方へと売られるのです。 その問屋にとっても、水路は重要な物流の動脈です。

江戸は水路が発達していましたから、舟による水上輸送も盛んでした。 特に深川は、ベニス以上の水郷都市といっても過言ではないほど、 町中に縦横に水路が走っていました。

江戸市中の水路をいく船は小型のものですが、いくつかの種類がありました。 伝馬(てんま)船は大型船との連絡に使う連絡に使う船。 高瀬船は平底の小型船で帆がついており、 荷物や大勢の人を運ぶのに使われました。 猪牙(ちょき)船は最もポピュラーな船で、 小さな船体ですが船首が鋭くなっていて、 とてもスピードが出ました。主に船宿の客の送迎に用いられました。

水路に囲まれているだけに、船を利用した商売も多くありました。 船宿は吉原や深川の遊郭の送り迎えをするタクシーやハイヤーのようなもの。 川に面した料理屋などでは、専属の船頭を雇って、客の送迎をするところもあります。 屋形船は大川周辺の遊覧船。 いくつもの座敷を備えており、江戸市中の船としては最大級の大きさを誇ります。 船上では酒宴が催され、夏の夕涼みや両国橋の花火の遊覧は贅沢な遊びでした。

また、 渡し船も多く見受けられました。 また、行商人のように荷物を船に乗せて売る物売り船もいました。 変わり種は、江戸湯船。 風呂を船に乗せた移動銭湯のようなものでした。

船を操るのに免許など必要がありませんから、川縁に住んでいる人々の中には、 船を持っている人もよく見受けられました。 船着き場は街中の至る所にありましたし、 ちょっと岸に寄せるだけで乗り降りには充分だったのです。


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